その日が来る

和田一郎副牧師   
エレミヤ書33章14-16節
マタイによる福音書26章47-52節
2022年11月27日

Ⅰ. アドベント

今日からアドベントに入ります。アドベントはラテン語で「到来」という意味です。旧約聖書の時代から救い主が到来すると約束しておられた。今日のエレミヤ書の言葉もその一つです。イエス様の誕生を祝うクリスマスを待ち望み、やがて、再びイエス様が来られる再臨の到来を心に覚える期間としております。

Ⅱ. メシアとはどんなお方なのか

エレミヤ書33章12節「万軍の主はこう言われる。人も獣もいない荒れ果てたこの場所が・・・」とあります。エレミヤの時代ユダの国はバビロン帝国に滅ぼされます。しかし12節後半「そのすべての町が、再び羊の群れを伏させる羊飼いの牧場となる」との言葉を告げるのです。そして14節「その日が来る。  
私は、イスラエルの家とユダの家に語った恵みの約束を果たす」と、救い主を与えてくださるという約束です。
15節「その日、その時、私はダビデのために正義の若枝を出させる」。ダビデのために、とはダビデ王に告げた「ダビデ契約」と呼ばれる祝福の約束を果たすために、「正義の若枝を出させる」というのです。この「正義の若枝」というのがイエス・キリストを指す言葉です。つまり、その日がベツレヘムの家畜小屋で起こったイエス様の誕生です。「彼は公正と正義をこの地に行う」とあるように、イエス様はこの地上の生涯において公正と正義を行いました。人々を癒し、教え、十字架という犠牲を私たち人間の罪の身代わりとして受けてくださった出来事は「公正と正義」の御業です。さらに33章6節に「私はこの都に回復と癒やしをもたらし、彼らを癒やして、確かな平和を豊かに示す」とあり、これもイエス・キリストが救い主として、この地上でなさることを指しています。
平和というのはヘブライ語でシャロームです。神様による罪の赦しがもたらす、心の平和のことですし、もっと広い意味で人間関係の平和、政治的な平和、社会や環境を含めた被造物における平和など、広い意味でシャロームという言葉は使われます。
しかし、待ちに待った救い主は、人々が想像するような強い力を誇るメシアではなかったのです。イエス様がエルサレムに入城された時、小さな子ロバに乗って、ゆっくり向かわれたのです。そして、今日の聖書箇所では、武器を携えた群衆を前にした言葉でした。相手が剣を持ってやって来た、イエスの弟子たちも剣を手にして応戦します。しかしそこで「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)。それが、「公正と正義」の御業、「確かな平和を豊かに示す」救い主の姿でした。しかし、イエス様が地上で活躍されていた時に、平和な社会が実現したかといえばそうではありませんでした。イエス様自身は暴力によって捕らえられ、十字架に架かられたのです。それを逃れることは出来たでしょう。
「私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。」(53節)と、武力をもって武力を封じることができましたが、そうはなさらないお方です。またノアの洪水の出来事のように、一気に世の中を変えることもできたでしょう。しかし、そうではなくて私たち自身を平和を作る者として下さったのです。
「平和を造る人々は、幸いである/その人たちは神の子と呼ばれる」とキリストから受けた平和を、今度は私たちが、この世で実現させる働きです。

Ⅲ. キリスト教と戦争

ところが、イエス様の時代の後も、人類は争い続けました。戦争のなかった時代はほとんどありませんでした。それどころかクリスチャンによる戦争さえありました。十字軍、魔女狩り、ユダヤ人迫害、キリスト教を背景としたアメリカでも、南北戦争があり、イラクやアフガニスタンに、正義の名のもとで軍事介入がありました。
ロシアという国も、ロシア正教というキリストを主と信じる信仰をもつ国です。その国がウクライナを侵略しているではないか?今、世界では、軍事力の増強が盛んに行われています。しかし、あくまでもイエス様の選択は、剣を取って逆らうことではありませんでした。
2004年サッカーヨーロッパ選手権での事。フーリガンに対する従来の警備体制は、機動隊や装甲車を投入して力でねじ伏せるやり方でした。しかし強硬な姿勢をとることは敵対感情を助長することになると考え、別の体制を敷きました。警備隊は従来の制服ではなく明るい色の服を着て、出場チームやファンについて勉強し、ファンとコミュニケーションがとれるようにした。彼らが道路でサッカーボールをけり始めても、すぐには介入しない。つまり敵対関係を作らない警備体制を敷いたのです。その結果この地域では暴動が起こらなかったのです。
第二次世界大戦の後、日本は戦争を放棄すると決めました。つまり武器を捨てて周辺諸国と敵対関係を作らないと宣言をしました。その時、田中耕太郎という文部大臣が発言しました。
「つまり戦争放棄をなぜ致しましたかと申しますと・・剣を以って立つ者は剣にて滅ぶという原則を根本的に認めるということ・・しかしながら、・・不正義を許すのではないかというような疑問を抱く者があるかもしれない・・不正なる力に負けてしまうというようなことになりはしないか・・不正義をそのまま容認するという風に、道義的な感覚を日本人が失うということになっても困るのではないか・・。しかし、決してそうではない。不正義は世の中に永く続くものではない。剣を以って立つ者は剣にて滅ぶという千古の真理に付いて、我々は確信を抱くものであります」(1946/7/15 衆議院憲法改正案委員会)。
戦争を放棄し、剣を鞘に納めようとした背景で、聖書の御言葉が用いられていました。しかし、この大臣の意向は守られませんでした。聖書の教えは「平和を作る者は幸いである」と明確で普遍的なものですが、それを守る人間の側に問題があるのです。宗教があるから戦争が起こる、キリスト教は個人主義だから戦争が起こるという声を耳にします。しかし「剣を鞘に納めなさい」「平和をなす者は幸いである」という御言葉を守れなかった人間の側の問題なのです。

Ⅳ. 「止まらなかったね」

守らなければならない事を守れないのは、私も反省することがあります。うちの息子がテレビでパトカーを見ると、「パパ、止まらなかったね」と言うのです。数年前ですが住宅街の道を車で走っている時、減速をしたのですが一時停止をしなかった時に、ミニパトカーがいて切符を切られました。私はすっかり忘れていました。なぜかというと忘れようとしていたからです。私は罰金をすぐその日にでも支払って忘れようとするのです。ですから、止まらなかった事を忘れていました。守らなければいけない事を忘れているのです。
人は大切な真理であっても、自分の都合の良いように捻じ曲げたり、忘れてしまったりします。イエス様の教えは明確であるのに、守ることができない弱さを人はもっています。戦争で私たちは、剣を振り上げたが故に、剣で取り返しのつかない犠牲を負わせ、自らも犠牲を負いました。ですから、もう剣を持ちませんと宣言したのですが、剣を持つことを止めなかった。キリスト教であるが故に戦争を起こしたのではないのです。聖書の御言葉に力がないのではありません。キリストの教えに背いてしまう、人間の罪の性質が戦争を起こしているのです。
平和の主であるイエス様を待ち望むアドベント。2022年という一年を、私たちはどのように振り返るべきでしょうか。
お祈りいたします。