マリアの賛歌

<第4アドベント>            
松本雅弘牧師
詩編147編1-11節
ルカによる福音書1章39-56節
2022年12月18日

Ⅰ. 喜びに溢れるマリア

先週「受胎告知」の箇所をご一緒に読みました。若い娘のマリアが、幼子イエスさまの母親として召された出来事を思い巡らしたことです。
「受胎告知」はマリアにとって「大事件」だったと思います。マリアには婚約者ヨセフがいました。まず彼のところに急いで行って話を聴いてもらってもよかったかもしれません。あるいは家族か、彼女の属するナザレの村の会堂長でもいいでしょう。ところが、ルカ福音書は、そうしたことを一切伝えずエリサベトの許に急いだことを伝えています。
私もふと気づくと急ぎ足で歩いている自分を発見するようなことがあります。そのような時、何か急き立てるような思いが心の内側にあることに気づきます。でも、全く逆の場合もあります。向かった先に楽しみや喜びが待ち受けているような場合です。「少しでも早く、そこに行きたい」、そうした思いからつい急ぎ足になってしまう。この時のマリアはそうだったのではないでしょうか。

Ⅱ. エリザベトとの再会

マリアは山里に向かって急いでいます。何が彼女を急がせたのでしょう?それを解く鍵が、46節から始まる「マリアの賛歌」の歌い出しにあります。「私の魂は主を崇め」。
この「崇める」という動詞は原文を見ると現在形で書かれていて、「私の魂は主をずっと崇め続けています」という意味です。一方、「私の霊は救い主である神を喜びたたえます」の「喜びたたえる」は不定過去形で「私の霊は救い主である神を喜んでいた」、「もう喜んだ」という訳になります。
マリアはすでに喜んでいたのです。不安だったので確かめようとしてエリサベトの許に急いだのではありませんでした。喜びに急き立てられていたから、足が小走りになっていたのです。それが、ここでルカが伝えようとしているマリアの姿でした。

Ⅲ. マリアの賛歌

喜び溢れた、そのマリアを迎えたのが親類のエリサベトでした。エリサベトのところに行って、喜びを感じている者同士、神の恵みを数えながら、共に賛美し、祈りを捧げたいと願ったからです。そして不思議なのですが、エリサベトと会う時点までマリアの心の中にあった喜びはまだ歌になってはいません。エリサベトと挨拶を交わし、互いに抱き合って喜んだ時、その時初めて賛美の歌が口からあふれ出た。そのようにして歌われたのが「マリアの賛歌」でした。
この「マリアの賛歌」ですが、聖書の専門家たちは、この時のマリアは全く白紙の状態から「マリアの賛歌」を歌い上げたのではない。幾つもの聖書の言葉が、この「賛歌」にはちりばめられている、と語っています。
1章5節によれば、エリザベトは「アロン家の娘の一人」です。そのエリザベトの親類がマリアだとしたら、彼女も家も祭司だった可能性が高いでしょう。マリアは子どもの頃から詩編を唱え、祈る家庭の中で、信仰を育まれてきたのではないかと思います。
賛美礼拝でお話したことがありますが、こんな思い出もあります。ヨベル館に行こうとする私に、「あした、クリスマスの劇やるんだ」と嬉しそうに話しかけてきた年長さんの女の子がいて、私が「誰の役?」と訊くと、「マリアさん」と答えると、隣にいた子が「私もマリアさん」と嬉しそうに言った。そして私が「マリアさん何人?」て訊いたら、「八人。でもイエスさまは三個しかないの」と答えた。みどり幼稚園らしくて大好きです!
その年の劇に八人のマリアさんが居たように、実のマリアも自分一人で与えられた恵みを独占しなかったのです。「私だけではないあなたにも、このような神さまの恵みが与えられている」と、その恵みを数えながら「信仰の歌」を、それも旧約聖書の昔からの歌い継がれた賛美の歌を、新たな思いを込めて歌った。それがこの「マリアの賛歌」でした。

Ⅳ. 主を喜ぶことは力となる

ところで、今日も私たちは神を礼拝しに集まって来ました。この礼拝で賛美歌を歌い、神をほめたたえます。そして「マリアの賛歌」から私たちは、神を礼拝すること、ほめたたえることとはイコール、神さまを喜ぶことだと知らされます。でも果たして礼拝に集う私たち、賛美歌を歌う私の心の中に、どれだけの喜びがあるのだろうか、神さまを喜んでいるだろうか、と考えさせられます。喜ぶことは当たり前のようで、実はそう簡単ではないことに気づかされます。
ある牧師が、「神の存在を十分に信ずることができる理由を捜すより、神の存在を疑わせる理由を捜す方がたやすい」と記していました。自分自身の内側、教会員の方たちの生活、そして世界に目をやっても「なぜ?」と訴えたくなるような現実や出来事の方が多いからです。そのような日々を送りながら、七日たつと主をほめたたえる日、主を喜ぶ日が再び巡って来るのです。
静岡県の牧ノ原にある榛原教会は、重い知的障がいを持つ子ども達の施設「やまばと学園」を創設して運営しています。そこに元理事長の長沢巌という牧師がおられましたが、お姉さんも知的障がいを持つ人だったそうです。長沢牧師は「精薄者の姉をもつ私」という文章の中でこう語っています。
「このような姉と二人姉弟でこの世に生を受けたということが、私の人生に決定的な意味を与えたと思われます。まず、私は、精薄として生まれたのが姉であって、私ではないということに恐れを感ずるのです。…この事実から、私は自分たちの知能が神から与えられたものであって、それによって誇ったり、人を見下げたりする理由がまったくないことを思わされます。…私はこういう『伴侶』を与えられた為に、少年時代から苦悩の意味について考えないではいられなかったのです。現在もなお考え続けているのであって、それが完全に分かったといえる日は、地上にある限りこないでしょう。ただ一つ言えることは、イエス・キリストの十字架に、苦悩の問題を解く鍵があるということです。イエスはこの世に苦難が存在する理由を説明されはしなかったのですが、ご自分の身をもってその苦難を負われました。…私たち人間の真に意味のある生き方も、やはり苦難を負うところにあることを、キリストの十字架から教えられます。神から与えられた賜物を、苦しむ者たちと共に分け合う時に、私たちは初めて神の愛の内に生きたということができるでしょう。」
抱え切れないような悩み、担え切れない苦しみ、呻かざるを得ないような痛みがあったからこそ、私たちに代わって苦しむ為に生まれてこられ、十字架にかかり復活された、イエス・キリストの愛が分かったという証しです。
説教の準備をしながら、もうお一人のことを思い出しました。今年の4月末に101歳で天に召されたK姉のこと、その姉妹の大好きな聖句の一つが「主を喜ぶことはあなたがたの力です」という御言葉だったということです。
葬礼拝の準備のために、ご遺族からいただいたK姉の半生を綴った文書を読みますと、喜びも多かったのですが、それ以上に様々な辛い経験をされたことが分かります。ご自分の病、家族の病、そして何よりも愛する息子を五十代の若さで天に送らなければなりませんでした。そうしたK姉だったからこそ、「主を喜ぶことはあなたがたの力です」という御言葉で自分を支え、そして主に支えられて生きて来られたのでしょう。
ある人が、「神に示すことのできる最高の敬意とは、神に愛されていることを知ることにより、私たちが喜んで生きることである」と語っていましたが、ケイコさんも長い信仰生活を通して、まさに神さまに愛されていることをことあるごとに確認し、その結果、神を喜んで日々を送っておられたと思います。私たちもそのような証人に囲まれながら、今、この時、信仰生活を送っているのだとつくづく思わされました。
マリアは、「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌います。神さまを礼拝することは神さまを喜ぶこと。神さまを礼拝することにより私たちの心に喜びが満たされるからです。
マリアの喜びの源泉はここにありました。身分でもない、性別でもない。今まで偉大な神さまだから、偉大な人々にしか目をお留にならないと思っていたのに、そうではなかった。身分の低い、この私に目を留めてくださった。そして偉大なことをしてくださった。神さまは、そのように、この私を愛してくださった。マリアはそれを実感した。そしてそのことが、彼女にとっては驚きであり、そしてまた大きな喜びとなったのです。
そしてどうでしょう。私たちも、その同じ神さまの恵みを数えることができる。その神さまに目を留めていただいている現実の中に置かれている。
私たちに必要なことは、この恵みの現実の中に自分自身をしっかりと置いて、その恵みが、つま先や髪の毛の先まで浸透し実感することができるようになることです。何故なら、「神に愛されていることを知ることにより、私たちが喜んでいきる」からです。
マリアとエリサベトはこの神さまの愛を深く受け止めた。それゆえに喜びに満たされた。喜べない厳しい現実、悲しい出来事に囲まれていたとしても、神さまに愛されている恵みに浸り、その恵みに立ち続けようとした。
そして今日、ここに礼拝に集った私たちも、マリアやエリサベトと一緒に主を賛美し礼拝して生きることが許されている礼拝に集う時、教会には、私と共に喜びや悲しみを分かち合える信仰の友エリサベトがいる。この恵みの中、クリスマスに向けて歩む私たちでありたいと願います。
お祈りします。