個のちから

和田一郎副牧師 説教要約
ダニエル書7章13-14節
ルカによる福音書4章16-30節
2023年1月22日

Ⅰ. ふるさとの山はありがたきかな

最近、叔母の家に行くことがよくあります。そこから見る富士山と大山が見事なので、いつも立ち止まって眺めています。石川啄木の歌に「ふるさとの山に向かひて言うことなし ふるさとの山はありがたきかな」というものがあります。叔母を訪ねるのはふるさとに帰るような懐かしさを覚えて、そこで、ふるさとの山、富士山と大山の景色を眺めて「ありがたきかな」と思えるのですね。今年の目標の一つとして、その大山に家族で登ろうと思っています。

Ⅱ. 故郷ナザレの反応

イエス様も、生まれ育ったふるさとの町に帰ってきました。しかも、一人で行かれたようなのです。イエス様の公生涯は、弟子たちと一緒にいるようなイメージがありましたが、今日の箇所では、一人ナザレの町の会堂へと入っていったのです。そこで17節「預言者イザヤの巻物が手渡されたので、それを開いて、こう書いてある箇所を見つけられた」とあります。当時の聖書というのは、手書きで書かれた巻き物です。今のように六十六巻が一冊の本になっているというものではなくて、イザヤ書であれば、イザヤ書だけの巻き物なのです。
朗読をされたあと、説教をされました。21節「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言されました。イザヤ書の内容は、主の霊が私に臨んだ、主が私に油を注がれた、主が私を遣わされたというのです。「私」というのはイエス様ご自身のことを言うのですから、イザヤの預言が、この私に実現したと語られたのです。
最初は説教を聞いて素晴らしいと褒めたのです。ところが22節「この人はヨセフの子ではないか」と言う人がいました。ナザレは小さな町で人々は、イエス様の両親であるヨセフとマリアのこともよく知っていました。その会衆の反応を見てイエス様は言われました。イザヤ書に書かれている救い主が現れるという預言が自分のことだと言うのなら、奇跡を行って見せてみろというに違いないと、先を見通して言われたのです。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだからです。イエス様が神から遣わされたという証拠を見せてもらいたいと、彼らは思っているのです。そもそも預言者というのは、神様の御言葉を預かって語る特別な人です。ところが小さな頃から知っているイエス様の言葉は、あの大工の息子の言葉としか聞くことができなかったのです。
そこで、譬えに出されたのが、預言者のエリヤとエリシャの話です。エリヤはイスラエルに3年6カ月にわたる大飢饉が起こった時、イスラエルではなく外国のシドンのやもめの所に行き、彼女の家族を救ったのです。エリシャもイスラエルに皮膚病で苦しんでいる人がいるにもかかわらず、外国人のナアマンの皮膚病を癒された。エリヤとエリシャの話は、ユダヤ人たちが、自分たちこそ神に選ばれた特別な民で、自国優先意識をもっている人は救いに与れなかった。むしろ外国人に救いがもたらされた話なのです。それは、ナザレの人達よ、あなた達と同じだろうとイエス様は言われたのです。
イエス様の話しを聞いたナザレの人々は怒りました。彼らは総立ちになってイエスを町の外に追い出し、それだけではなく崖から突き落として殺そうとしたのです。その殺意の背景にあったのは、イエス様が預言者だというのなら、奇跡を起こしてみろ、私たちが見てやる、神の言葉を扱う者かどうかは、自分達で判断するという思いがあったのです。ところが、救いに与るのはあなた達のような者ではない、とイエス様に言われたことが殺意になっていった。要するに正しいことを判断するのは自分である。いや正しいとか悪いとかを超えて、この町で偉いのはこの自分だという自己中心的な考えです。

Ⅲ. 人々の殺意

ナザレの人々の殺意は今の世界と重なるところがあるのではないでしょうか。ロシアのジャーナリストが、ウクライナとの戦争で戦死した母親に取材を申し込んだそうです。しかし、戦争に批判的なジャーナリストの取材に応じると、国から戦死した遺族に支給されるお金がもらえなくなるから拒否したと。その母親は、そのお金を娘の家を建てるのに使うのだそうです。つまり息子の命を悼むよりお金を優先しているのです。かつて、ソ連がアフガニスタンに侵攻して、戦死したロシア人の母親たちに取材をした時は、息子たちの命を惜しんで、戦争をはじめた国の指導者たちを批判していたといいます。ロシアだけではなく世界中で命の尊厳が薄らいでいる、自国優先主義が広がっています。イエス様を殺そうとしたナザレの人々は、自分たちの判断を第一として聞く耳をもちませんでした。それは、私たちも含めて他人事ではないと言えるのではないでしょうか。

Ⅳ. 故郷で受け入れられない

今日の聖書箇所の最初のところで、イエス様はご自分の育ったナザレに行き、お一人で会堂に入っていかれました。そして、終わりに30節「イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」と書かれているのが印象的でした。一人、会堂に入って行き、一人立ち去って行かれた。人々の殺意の中を、受け入れてもらえない、という虚しさを覚えて去っていくイエス様の背中が思い浮かぶのです。イエス様は、救いをもたらす救い主でありながら、一人の人として会堂に入られ、一人去って行きました。私たちが生きている、この世の生活においても孤独があります。多くの人の中に住んでいても、周囲からは見えない孤独が広がっています。殺意を感じながら生活している人がいます。イエス様はそのような淋しさや、孤独や、殺意の中を歩まれていました。私たちと同じ、一人でいる孤独な淋しさ、虚しさ、殺意の恐ろしさを分かってくださる方です。そういうことは誰にでもある、なんて扱わないのです。人にはまったく理解してもらえない虚しさを味わったイエス様だから、私たちの痛みに寄り添ってくださるのですね。
わたしの家族は、5歳の息子が夜寝る前に布団の上で絵本を読んだりして過ごすのですが、妻が「最近、年をとったかな?」と言ったら、息子が「ママもいつか天国に行っちゃうの?」と言うのです「それはそうだよ、いつか天国に行くのだよ」と答えると、息子は「ワー」と大泣きしました。人はいつか死を迎えるということが、自分の親もいつの日か・・・と感じていたようです。それから「パパとママが天国行っちゃうと、ボク一人になっちゃうよ」「ボクご飯作れないよ」と一気に言いました。イエス様も、死というものを意識して祈りました、「できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください」と。
わたしたちは一人では、どんなに力を尽くしても打ち勝つことができない弱さがあります。その私たちと同じ弱さを、イエス様は身に受けてくださいました。イエス様が歩まれた淋しさや恐れは、私たちの淋しさや恐れと同じです。しかし、この方はイザヤ書にあるように、主の霊が望んだ方、主が油を注がれた方です。完全に人であり、完全に神であられる唯一の力を持っている方です。
世のすべての罪を一人背負って十字架に架かってくださり、孤独を味わってくださいましたが、この方は孤独で終わる方ではありません。死に打ち勝ち、神の家族という、ふるさとを作ってくださったのです。ご自身は故郷で受け入れられませんでしたが、私たちのために、永遠のふるさとを天に備えて下さったのです。「私たちの国籍は天にあります。」唯一の方の後ろ姿に、従っていれば、小さな私たちであっても倒れることはありません。  
お祈りいたしましょう。