新たに生まれる

松本雅弘牧師 説教要約  
民数記21章4-9節
ヨハネによる福音書3章3-15節
2022年11月20日

Ⅰ. ニコデモ

過越祭の期間、主イエスはエルサレムに滞在され、そこで多くのしるしを行っていました。たぶん病気を癒し、体の不自由な人々を治すといった御業だったと思います。その結果、そうした奇跡の数々を目撃した多くの人々が主イエスの御名を信じた。しかし、主イエスは彼らを信用なさらなかったのだとヨハネ福音書は伝えています。
そして、そうした人々の代表としてニコデモという人物を紹介しているということを、先週の説教でお話したことです。今日はその続きとなります。

Ⅱ. ニコデモの問題意識と主イエスの答え

今日は3節からお読みしましたが、ここでわざわざヨハネ福音書は、「イエスは答えて言われた」と、ニコデモの問いかけに主イエスがお答えになったのだ、ということを伝えています。
ところが、2節にあるニコデモの言葉を何度読み返しても、ニコデモからの問いかけ、質問らしきものが見当たらないのです。「疑問文」ではないからです。だとすれば、主イエスはニコデモの何にお答えになったのでしょうか。
ある専門家は、「先生」というニコデモの呼びかけに注目していました。新共同訳聖書では原文のギリシャ語そのまま、「ラビ」と訳しています。「ラビ」とは、律法の教師に対する敬称、「あなたは私の聖書の先生、あなたを先生として尊敬しています」という意味を込めた呼びかけの言葉です。
先週もお話ししましたが、この時、主イエスの社会的評価は定まっていませんでした。世間からしたら、ガリラヤという田舎出身の「一介の貧しい伝道者」にしか見えなかった。ところが過越祭の期間、まずは神殿清めから始まり、神殿での教え、さらに様々なしるしを見聞きする中、〈イエスは、並みの教師ではない。ただならぬ存在だ〉と感じ始めたのがニコデモだったのです。そのことを彼自身が自分の言葉で、2節「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできない」と告白している通りです。つまり神が主イエスと共におられる、そうとしか考えられない。いや、実際、主イエスを見る時、そこに神の現存/神のご臨在を認めざるを得ない。「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできない」と言ったニコデモの言葉は、そうしたことを意味していたと思います。だとしたら〈そのお方に直にお会いし教えを乞いたい。指導を受けたい〉。ニコデモはそう思ったのでしょう。
そのニコデモの言葉、そこに込められた彼の思いを受け取った上で、そのニコデモの求めに応答する言葉が、3節の主イエスの「答え」となったのだと思うのです。3節。
「イエスは答えて言われた。『よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』」つまり、「神の国を見る」ためにはどうしたらよいのか、ということを主イエスがお答えになっています。
この時代、神の民であるイスラエルがローマ帝国の支配下にありました。国をまったく失った状態にあったのがイスラエルの人々でした。そのような状況下にあって、ローマからは総督としてピラトが派遣され、国の至るところにローマ兵が駐屯し、ローマ帝国の支配は見えても、神の国、神の支配なんかまったく見えない状況でした。
いや人々はもっと身近なところでも、神の国、神の支配を感じられない日常を経験していたことだと思います。この後、ヨハネ福音書を読み進めて行きますと、5章にベトザタの池の周囲にたむろしている大勢の病人や体の不自由な人々がいるという現実がありました。さらに9章には、生まれながらに目の見えない人が登場します。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」。弟子たちがそう質問したことが出て来ます。
弟子たちの心の中には、〈神さまがおられるならば、神の民イスラエルに、何でこんな不幸な人々が多いのだ。そもそも、真の神さまを信じている、自分たち選民イスラエルが、異邦人、異教徒の国ローマ人の支配下にあって、重い税金で苦しまなければならないのだ〉。そうした不条理を日常的に感じていた。そう考える人々の先頭に、ファリサイ派の人々が居て、その一人が、この時、夜に主イエスの許を訪ねたニコデモだったのではないかと思うのです。つまり、ニコデモの心の中にあった問題意識、それは「神の国が見えない。神はどこにおらるのか」というもの。「いつまで待ったら、神の国を見ることが出来るのか」という問いだったのではないかと思うのです。主イエスは、ニコデモと会って、その問い、彼の心から離れたことのない問題意識をしっかり聴いた。そして、神の国を見るためには、「新たに生まれなければならない」と答えたのです。

Ⅲ. 新たに生まれる

さて、これを聞いたニコデモは主イエスの答えの意味が分からなかったようなのです。「新しく生まれなければ」と言った主イエスの言葉を聞いた途端に「自分はもう年を取っていて、やり直しの利かない年になっているのに、どうして生まれることができるでしょうか。そんなことは不可能です」とがっかりしたのではないかと思うのです。
さて、これを受けての主イエスの言葉が続きます。「新たに生まれる」ことを言い換えるようにして3章5節「誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。」「人は水と霊とによって新しくなれる」とおっしゃったのです。
ここでは明らかに、水と霊による洗礼を意味していたと思われます。これによって、歴史の教会は洗礼を授けるようになったとも言われている有名な言葉です。新しく生まれるように上からの霊を求めなさいと求められたのです。8節「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」と言われました。これを聞いてさらに困惑するニコデモに主イエスは、民数記21章に記されている出来事、すなわち、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子が上げられる。そしてあの時、上げられた蛇を仰ぎ見た者が救われたと同様に、十字架に上に上げられた人の子を仰ぎ、信じることで永遠の命を得ることになるのだ、とお語りになったのです。

Ⅳ. 主イエスを見上げて

民数記によれば、荒野で罪を犯したイスラエルに対して、神さまは炎の蛇を送られました。その結果、多くのイスラエルの民が蛇に噛まれ命を落としていったのです。そうした苦悩を経て民は心砕かれ、モーセの許に行って、「私たちは罪を犯しました。私たちから蛇を取り去ってくださるように、主に祈ってください」とお願いした。モーセも必死に執り成すのです。その結果、モーセに示されたのが、青銅の蛇を作って竿の先に掛けなさい、という導きだったのです。
興味深いなと思います。元々お願いしたのは「蛇を取り去ってください/私たちの日常から蛇を退治してください」ということでした。私たちに当てはめるならば、私を傷つけるあの人をどうにかしてください。私の病気を癒してください。経済的に楽にしてください。苦しみや悩みの種、すなわち、蛇そのものを退治してくださいとお願いしたにもかかわらず、神さまは蛇を取り去ることはなさらず、モーセに命じて青銅の蛇を作り、イスラエルの陣営の中で高く掲げ、全ての人がそれを見るようになさったのです。噛まれた者が、ただ目を上げて上げられた蛇を仰げば死に至る猛毒から癒されるようにされた。噛まれたら、先ずは自力で来て触るようにお命じになったのではないのです。もしそうだとしたら誰も救われなかったでしょう。途中で毒が回り数歩も歩けなかったに違いない。
あくまで神さまがお求めになったのは、頭を上げて、上げられた蛇を見ることだけであり、事実、それによって救われたのです。「やり直す」のでもない、私の側から救いを獲得するために、何かを積み重ねるのではないのです。モーセが荒れ野で蛇を上げたように、十字架に上に上げられた人の子を仰ぎ、信じることで生かされる。なぜなら、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」そう主イエスがおっしゃるからです。主にある救いをいただくことで、神のご支配の中に移される。神の国を見る恵みの世界が開かれるのです。
お祈りいたします。