沈黙の恵み

<第2アドベント>            
松本雅弘牧師
詩編77編1-21節
ルカによる福音書1章5-23節
2022年12月4日

Ⅰ. ザカリアに起こった出来事

ザカリアが一人、神殿の奥に入り、祭司として神に奉仕している時でした。突然、天使が現れ、「恐れることはない。ザカリア、あなたの祈りは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ」と伝えられたのです。それを聞いたザカリアは戸惑います。いや、それ以前に天使自体に驚愕したのでしょう。
これまで長い間「子を授けてください」と祈り、その祈りが成就しようとする時、そう祈っていたザカリアの口から飛び出した言葉が、「どうして、それが分かるでしょう。私は老人ですし、妻も年を取っています」(18節)。皮肉ですね。この後、彼はいっさい話すことが出来なくなりました。

Ⅱ. 沈黙の恵み

沈黙を強いられた期間は十か月。結構な長さです。その間、一言も発話できないわけですから。福音書によればザカリアは神の前に正しい人で主の戒めと定めとをみな落ち度なく守って生活していた人です。ところが祭司としての経験や知識が全く役に立たない。世間の人から、「ザカリアさん、何かしでかしたのでは。ばちが当たったのでは」と噂され陰口も聞こえてきたかもしれません。ザカリアはそうした中に置かれたのだと思います。「人から生まれた者の内で彼ほど偉大な者はいない」と主イエスが紹介するほどの洗礼者ヨハネの誕生に際しザカリアに与えられた務めは沈黙すること。それだけだったのです。
さて福音書は、「その後、妻エリサベトは身ごもったが、五か月の間は身を隠していた」(24節)と伝えています。まだ子どもは生まれていない。ザカリアとエリザベト二人っきり。この老夫婦、元々エリサベトはとてもお話好きな女性であったかもしれません。でも話し相手、聞き上手の夫が何も話せなくなった。神殿から出てくるなり一言もしゃべることができません。そして直後に「お婆さん」の自分が妊娠したことに気づく。驚きであり恥ずかしかったかもしれません。そのエリサベトもまた、「主は今、こうして、私に目を留め、人々の間から私の恥を取り去ってくださいました」(25節)と語り、五カ月間身を隠す。口語訳聖書では「引きこもる」という言葉を使っていました。
さて、今日の説教題は「沈黙の恵み」です。この時のザカリア夫婦はすぐに、この出来事を恵みと受けとめ切れなかったと思います。でも、ゆっくりと流れる時間の中、不思議と相手との会話に反比例するように、自らの魂との対話が始まり、それから神との対話も始まっていったに違いありません。
エリクソンという心理学者がいました。彼は人生の四季折々、私たちのライフサイクルには八つの課題があり、最後の時期を「人生の統合期」と呼んでいます。そこで誰もが問われる課題は「あなたは人生に感謝できますか?」ということだと語っています。
私は、この夫婦が、この沈黙の期間、どんなに深く神さまの恵みを味わったことかと思います。その証拠に、この十カ月にわたる黙想の日々の後、ザカリアの口から飛び出した第一声、それは、「ほめたたえよ」という言葉です。賛美の言葉です。
「教会の礼拝は、私たちの知恵が黙る時。教会は私たちが沈黙を学ぶところだ」とある牧師が語っていましたが、この夫婦の子どもヨハネが成人し洗礼者として世に現れ、続くように主イエスも公の生涯を始めました。イエスさまは多くの教えをお語りになったわけですが、その教えを一言で言えば、「神の御心がなるように」ということです。自分の願うところではなく、神さまの願うことが成就するということでした。
先日、高座教会の礼拝堂で定期中会会議が行われました。私たち長老教会は会議を重んじる教会です。でも教会は「ああでもない、こうでもない」と知恵を絞り合う場ではなく、「二人でも三人でもわたしの名によって集うところに私もいる」と約束し、実際にそうした交わりの只中に共におられる主イエスの御心を問いながら交わり、おしゃべりをし、会議する場です。そのために大切なことは私たちの側で黙ること。立ち止まって、共におられる主の御心を尋ねることでしょう。
ある人が、「神の前で沈黙を知る者だけが、有益な言葉を語ることができる。自分がしゃべり続けるということは、不信仰のしるしでもある」と語っていました。正にこの時ザカリアは、本当に大切な言葉を語ることができる者、神の御心に生きる者とされるために、しゃべることができなくなった。沈黙を強いられたのです。

Ⅲ. 想定外の出来事

ところで、この時代、ユダヤには一万八千人から二万人の祭司がいたと言われています。人によっては一度もこの務めを果たさずに召されていく祭司もいたかもしれません。現にこの時のザカリアも、この歳になるまで一度も経験したことがありませんでした。
くじを引いた、たった一人だけが一日、神の御前に出、大切な務めに与る。大変光栄な務めであったと共に、かなり緊張する務めだったのではないでしょうか。その緊張感は「間違いのないよう、一つひとつの儀式を順序正しく滞ることなく執り行うことができるように」というところから来ていたのでしょう。
私は牧師をしていますので、少し分かるような気がします。この後、洗礼式があります。「一つひとつの式を順序正しく滞ることなく執り行うことができるように」ということの中で、名前を間違えないように、ということも大事です。洗礼式の時に、別の方の名前で洗礼を授けたら、大変なことになりますから。頭に手を置き、お顔を確認し、洗礼式を行います。
ザカリアは祭司でしたから律法に定められた通り、順序正しく、落ち度なく行わなければなりません。ある意味で、それが祭司の仕事、決まったことを決まった通りに行う仕事です。そのようにして祭司ザカリアが、今ここで、生ける神さまの御前に出ていたのです。祭司ですから当然、「間違いがないように、順序正しく滞ることなく執り行うことができるように」と神経を遣い緊張感を持って務めを果たしていたのでしょう。ところが、その時のことです。ザカリアが予定どおり行かないことが起こった。11節。「すると、主の天使が現れ、香をたく祭壇の右に立った」。続く12節、「ザカリアはこれを見てうろたえ、恐怖に襲われた」と、彼の反応をそう伝えています。
私はここを読み、この時どうしてうろたえ恐怖の念に襲われたのかを考えさせられました。彼がそうなるのはよく分かります。しかも「間違いがないように順序正しく滞ることなく執り行うことができるように」というのが、この場面での一番の願いであり、神経を集中していた事柄でしたから、うろたえ恐怖を感じたのは当然だと思います。考えてみれば、これもまた皮肉な話なのではないでしょうか。
ある人は、この場面のザカリアの様子を「ザカリアの手順が狂った。神が邪魔をされた」と語ったそうです。その通り、ザカリアは神さまに邪魔されたので慌てたのです。順序正しく、滞ることなくやろうとしていた。ザカリアが自分で慌てて墓穴を掘ったのでもない、他の祭司が妨害したのでもありません。何と神さまが入り込んで来られた、というのです。ここでザカリアは慌て戸惑った。何十年と神に仕えてきたベテラン祭司のザカリアが、神さまのリアルな働きに触れ、不安になり、おじ惑っているのです。何か滑稽です。
でも彼を笑えるでしょうか。いや、これは私たちに関わる問題のように感じるのです。今日も礼拝に来ました。だいたい一時間から一時間十分で終わります。一つひとつの式順に従って礼拝は進みます。そうした礼拝、あるいは日常のクリスチャン生活はどこか決まりきったもの、もっと言えば、この時のザカリアのように、誰からも邪魔されたくない、邪魔され不安にさせられたら困るという思いが、私たちにないだろうか、と思わされるのです。

Ⅳ. 沈黙の恵み―自分のシナリオを神に明け渡す

ところで、私たちは自分の人生のシナリオを書きます。でもクリスチャンになった後、一つの不安のような心配のような思いが生じる。それは「果たして、私が描くシナリオは、神さまが私のために描くシナリオと同じかどうか」という思いです。
もしそうした問いを心深くに持つならば、あるいはその問いに気づいたならば、一度、自分で描いたシナリオ通り、滞りなく、手順通り、物事が進むようにという私の思いや計画を神さまの前に明け渡すことが必要になるかもしれない。実は、神がザカリアに求めたことこそが、それだったのではないでしょうか。そしてそのことのために、神さまの前に静まり御心を聞く時、生活の中の余白を必要とします。場合によっては十か月が必要かもしれません。
「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である。」(箴言16:9、口語)とある通り、私たちの側に神さまの介入を受け入れる余白を備えることです。教会もそうです。
カール・バルトという神学者は「われわれ人間の自然の営みが、神によって妨害されない限り、それは癒されることはない」と語りました。神さまに妨害された時、すなわち神さまの介入が起こった時に初めて、私たちの本来の恵みの生活が始まる。そして、すでにそれが始っていることを心に留めながら、今年のアドベントの歩みを進めて行きたいと願います。
お祈りします。