神に栄光、地に平和

<クリスマス礼拝>   
松本雅弘牧師 説教要約
イザヤ書33章2-6節
ルカによる福音書2章1-20節
2022年12月25日

Ⅰ.信仰をいただいたことの恵み

 クリスマス、おめでとうございます。クリスマスを迎え、改めて思いますのは、信仰を持つということは、考えてみれば、とても不思議なことなのではないでしょうか。信仰をいただきイエスさまを愛する者になること、言い換えれば、イエスという方と関わりを持つことです。これは本当に不思議であり、恵みでもあります。
今日、こうして共にクリスマスの礼拝を捧げているお一人おひとりにとっても、それぞれに与えられたお導きの不思議さを振り返ることができるのではないでしょうか。

Ⅱ.天使の知らせた福音

 さて、福音書記者ルカは、クリスマスの出来事を淡々と事実だけを伝えているように見えますが、実はとても大切なことを伝達しようとする彼の意図を感じます。ルカが語っていることは、「ダビデの町」と呼ばれたベツレヘムで生まれた、イエスという名の赤ん坊こそ、私たちにとっての「真の王/メシア」なのだという信仰を明らかにしている点です。この点についてルカは、そしてもう一つ、ルカが伝えたかったのは「イエスの誕生を当時の人々は誰も知らなかった」という事実です。
 当時は、ローマ皇帝アウグストゥスの時代です。その治世は長きにわたって平和が続きました。一般に「アウグストゥスの平和」と呼ばれます。人々は、「戦争のない、こうした平和な状態が続くのは、皇帝アウグストゥスのお蔭なのだ」と、彼を「救い主」と呼び、「神」と崇める人々も出たそうです。それ故、そうした皇帝アウグストゥスの誕生日を「福音」と呼んだ人々もいました。
そうした中、ルカは「今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった」。ここでルカは、当時、皇帝アウグストゥスを呼ぶ時に用いていた「救い主/メシア」の「呼称」を「イエス」に当てて使っている。飼い葉桶に眠る赤ん坊を指さしながら、「アウグストゥスではない、こちらのお方こそがまことの救い主/メシアなのだ。ダビデの町に誕生し、布にくるまって飼い葉桶の中に寝かされている乳飲み子こそ、真の皇帝なのだ。最強の王、名君と褒め称えられた皇帝アウグストゥスの治世に、実は、もう一人の王、いや真の王が誕生した。この方こそメシア/キリスト・イエスなのだ」、そう確信を持って記しているのです。

Ⅲ.福音書記者ルカによるスクープ記事

 ところで現在、聖書外の文献や最新の考古学の裏付けによれば、この時の「住民登録」がシリアで実施されたのは紀元前7年、もしくは紀元前4年頃なのではないか。したがってイエス・キリストは紀元元年を遡ること7年前、もしくは4年前にベツレヘムで誕生されたのかもしれないと考えられるようになってきています。
さて、そうした中、この福音書を読む時に、ルカが私たちの目を向けさせようとしている点があります。それはアウグストゥスによる世界規模の歴史的人口調査が実施される最中に、世界の片隅で、本当にひっそりとした夜に、もう一人の王、いや真の王である救い主イエスが誕生した。当時、人々は皇帝アウグストゥスの力を称賛し、その平和を喜んだ。だから彼の誕生日を「福音」とまで呼んでお祝いしていた。しかし、その同じ時、その同じ世界にもう一人の王、いや真の皇帝として「イエス」という名のメシア・救い主が誕生した。当時の誰も知らない。それ故、誰からも祝われない仕方で誕生した。その出来事を歴史的出来事としてスクープした新聞記者のように、「ところが、彼らがそこにいるうちに、マリアは月が満ちて、初子の男子を産み、産着にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる所がなかったからである」と興奮を抑えつつ、しかし確信を持ってここに記録しているわけなのです。

Ⅳ.「神に栄光、地に平和」

 最スクープはさらに続きます。その知らせを受けた最初の人が羊飼いたちだったというのです。「羊飼い」、彼らは最初から住民登録の対象外の人でした。だから世間が人口調査でごった返している最中にいつもと変わらずベツレヘムの野で羊の番をしていたのです。
ではなぜ神は、最初に彼ら羊飼いたちに御子の誕生を知らせたのでしょうか?結論を言えば、誰よりも彼らこそ、一番イエスさまを必要とする人たちだったからでしょう。ルカは、主イエスの誕生に飼い葉桶が使われた理由として「宿屋には彼らの泊まる所がなかったから」と伝えます。「泊まる所がなかった」とは、「迎え入れてはくれなかった」ということです。これは日常的に羊飼いたちが経験していたことです。
イエスさまがおられた場所は家畜小屋でしたから、きっと臭かったに違いない。しかも「飼い葉桶」の中に寝かされたわけですから。考えてみれば「飼い葉桶の臭い」こそ羊飼いが身にまとっていた「香水」だった。羊飼いたちからしたらホッとできるような香りだった。羊飼いたちが恐れることなく近寄ることができるように、、「野原の香水」をたっぷり浴びるように、家畜小屋の飼い葉桶に生まれて来た。しかも赤ん坊の姿です。神さまって何と優しいお方なのでしょう!
イエス・キリストはひっそりとお生まれになりました。それは、ひっそりと生きることしかできない人、片隅にしか居場所を見つけることができない、私たち一人ひとりの救い主になるために、忘れ去られるような仕方で、本当に静かに生まれてくださったのです。
そして、羊飼いたちに喜びの知らせを告げた天使たちは、「いと高き所には栄光、神にあれ/地には平和、御心に適う人にあれ。」と歌ったのです。
今年二月末からのロシア軍のウクライナ侵攻が今も行われています。二週間ほど前に、ロシア国内の空軍基地がドローンの攻撃を受け、その結果、三人が死亡、軍用機二機が破損したという報道がありました。それに対する報復とも思える爆撃が現在ウクライナで続いています。この危機に乗じて、あれよ、あれよという間に、私たちの国でも、増税による軍事費の増額が閣議決定され、今まで積み上げてきた安全保障に関する合意が、あっという間に骨抜きになってしまいました。何か危うさを感じます。
 預言者イザヤの時代、当時、イスラエルの周囲にはたくさんの強国があり、イスラエル国内世論は、「自分たちは他の国に負けないくらい国力を増強し、いざという時に備えなければならない」というもので、そう考える人が大勢いました。ところが、イザヤは「神の御心に従って、剣を鋤に、槍を鎌に変えるように!」と人々に訴えたのです。
 子どもの頃、近所に鍛冶屋さんの工房があり、職人さんが燃えさかる炉に向かって一生懸命仕事をしていました。鉄の棒を炉に入れ、真っ赤になったところで、ハンマーで何度も何度も、丁寧に叩いていくうちに、その棒が新しい道具に生まれ変わっていくのです。
この時イザヤが使った言葉は、私にとって、そうした鍛冶屋さんの仕事風景を思い出させる言葉です。「剣を鋤に、槍を鎌に変える」。武器を打ち直し、別の物に変えてしまう。そのためには一度炉の中に入れなければなりません。つまり根本的な変化、私たちの考え方に変化が起きることが、どうしても必要となります。
イザヤは「剣を鋤に、槍を鎌に変えなさい」と語り、「もはや、戦うことを学ばない」とも言い切りました。言い換えればそれは、「武器に頼らない、もっと別のやり方・新しい考え方の枠組みで平和を実現することを学んでいこう!探っていこう!」と呼びかけました。
 聖書を読みますと、その後ゼカリアという預言者が現れました。イザヤから平和のバトンを受け継ぎ、「エルサレムの広場に、老爺老婆が杖を持って座し、わらべとおとめが広場に溢れ、笑いさざめく」と、ごく普通のありふれた日常を語りました。実はこの姿こそゼカリアが示した「神の平和」です。
 飼い葉桶に誕生されたイエスさまは成人し、人々に向かって「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」と語られました。
「神の子」とは神の愛を知っている者のことです。私たちは愛される経験をする中で愛の人に変えられていきます。人に優しくされ、人として尊重されていく時、不思議と人に対して優しくなれる。人を大切にする人になっていくものです。逆に、おどされ、恐怖心をあおられ、力で抑えつけられれば、心は卑屈になります。最初は我慢していますが、復讐心や敵意を心の内に燃やすことだって起こるのです。今、私たちの世界は、正にこの報復の連鎖に巻き込まれています。
神さまは、この悪の連鎖を断ち切るために独り子イエスさまを飼い葉桶に誕生させてくださったのです。そのイエスさまを心に迎え入れることによって、私たちの内面を神の愛、神から来る平安で満たそうとされたのです。
私たちは、この王なるイエスさまの平和を実現する闘いに参与するように招かれています。その光栄と喜びを今日、もう一度、共に確認し、「いと高き所には栄光、神にあれ/地には平和、御心に適う人にあれ。」と賛美しながらの歩みを進めて行きたいと願います。
お祈りします。