よい実を結ぶために


2016年3月6日 受難節第四主日
松本雅弘牧師
詩編1編1~6節
マタイによる福音書7章15~23節

Ⅰ.死海のほとりで

 イスラエル研修旅行の2日目の夕方に死海浮遊という経験をしました。ただその日はとても寒くて、ほぼ寒中水泳のような状態でしたので、何度か体を浮かせる経験をした後は、ゆっくり景色も眺めずに急いでホテルに戻りました。そこで翌朝、散歩がてら死海のほとりに行きました。すると真っ黒な祭服に身を包み立派な髭を蓄えた司祭がいたのです。
妻が「お父さん、ユダヤ教のラビよ。一緒に写真を撮らせてもらえないかしら」ということで、カメラをもってお願いに行ったのです。そうしたらその方は快く妻の求めに応じてくださいました。妻に遅れて私も自己紹介をしました。彼はルーマニア正教会の司祭で教会の方たちと一緒に巡礼の旅にやってきたそうなのです。
私たちもクリスチャンで長老派の教会の牧師をしていることをお話しをしました。すると彼の目が急に輝いたかと思ったら、突然スイッチが入ったようになって「それはいけない。あなたは私たちの教会に改宗してくるべきだ」と、牧師である私を相手に、東方教会に改宗させようとしてきました。彼は近くにあった木の枝先の葉っぱを手に取りながら、自分たち正教会はこの幹の部分で、そこから分かれて行った西方教会、つまりカトリック教会は幹より細い枝の部分、そしてさらにあなたたちプロテスタントは、その枝からさらに分かれて行った小枝の部分もしくは葉っぱの部分だというのです。そして「ほら、見てみなさい」と言わんばかりに、葉っぱにフッーと息をかけると、葉っぱは頼りなげに揺れていました。「あなたたちは枝葉ではいけない。しっかりとした幹でなければ」と言い、正教会の正当性を主張していました。勿論、半分冗談で笑いながらのお話でしたが・・・。
さて、今日の箇所で、イエスさまは、まさに真の信仰と偽りの信仰を見分けるようにと説いています。今日は、この箇所を通して、神さまは、私たちの信仰をどのように見ておられるのかについて、ご一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.私たちの陥りやすい過ち

ここでイエスさまは、「天の父の御心を行う者だけが」と言って、行いの実で見分けるようにと教えておられます。ところが、17節で問題にされている「悪い木」である人々のことが21節から出て来るのですが、彼らの行いはどうかと言うと、悪いどころかとてもよい行いのように思えて来るのです。まず彼らは「『主よ、主よ』と祈る人たち」でした。また実際に彼らは、イエスの御名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡を色々と行うことをしていました。しかし、その彼らに対してイエスさまは、「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」と言う、と予告なさったのです。イエスさまによれば彼らは「天の国に入れない」者たちでした。これはとっても厳しい取り扱いです。では、一体、彼らのどこが問題だったのでしょうか。

Ⅲ.父なる神の愛の御心

このことを考える上でのポイント、それが21節で述べられているイエスさまの言葉、「わたしの天の父の御心を行っているかどうか」ということです。
再び彼らの主張の言葉に耳を傾けてみたいと思います。彼らは、「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか。」(22節)と言っています。
私はこうした彼らの言葉を読みながら、どこかで聞いたことがあるなと感じました。そうです。あのコリントの信徒への手紙一の13章、愛の賛歌に出てくる言葉、そして、またあの放蕩息子のお兄さんの訴えの言葉が聞こえて来るのではないでしょうか。
1コリント13章の言葉は一般に「愛の賛歌」と呼ばれる部分で使徒パウロが語った言葉です。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」(12:31b~13:3)
これを見ますと一つひとつは素晴らしい行いです。ところが、そうした素晴らしい言葉や、行い自体は、何の益にもならないと言うのです。むしろ人に害を与えるような騒がしいどらや、やかましいシンバルの音と何ら変わりないとパウロは断言します。では何をもってそう判断できるのか? それは愛があるかどうかだと聖書は言うのです。
思い出していただきたいのですが、放蕩息子のたとえ話の兄息子は一生懸命でした。またそのような自分を誇りに思っていました。でも、どうでしょう?! 一日の働きを終えて一人になった時に、彼の心に喜びや安らぎがあったでしょうか? 私は、そうではなかったと思います。
むしろ心配があり、妬みがあり、愚痴があり、思い煩いがあり、空しさや疲れで心が一杯だったのではないでしょうか。それは、彼を一生懸命の働きに駆り立てている心の中の動機が愛に対する応答ではなかったからです。「きちんとしなければ、人から何を言われるか分からない」という恐れです。神さまの愛でしか満たされない心のすき間を、「人から褒められる」という評価や称賛をもって埋めようとする。そうした生き方ですね。
ここで、イエスさまが口にされた「わたしの天の父の御心」とはどんな御心でしょう。そうです。愛の御心です。その愛とは無条件の愛です。何かをしたから愛される愛ではありません。何をしてもしなくても、それに関わりなく、私を大事な存在として思ってくださる愛の心ですね。
私たちは、今までの自分の経験から、愛を受けるには受けるだけの理由を私の側に持たなければならない、という思い込みをもって生きています。ですから、神さまもそうに違いないと思い、愛されるために一生懸命に頑張るのです。でもそれは大きな間違いです。誤解です。
神に愛されるために何かをするのではなく、神に愛されているので愛する、というのがクリスチャンとして無理のない自然な生き方です。
 モーセの十戒には「盗んではならない。嘘をついてはならない。姦淫してはならない……」とあります。そうした戒めは、それを守らないと後ろ指を指されるからそうするのではありません。人から褒められたいから盗まないのではない。そうではなくて、隣人を愛するから盗まないのです。その人を愛するのでその人の物を盗んでその人を悲しませたくないと思うからです。人に嘘をつかない、それはその人が大事だから嘘をついてその人を傷つけたくないからです。
それでは、どうしたらよいのでしょうか? まず神さまの愛に留まり続けることです。愛の御心に触れ続けることしかありません。
聖書は、「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです(Ⅰヨハネ4:19)」と教え、信仰生活の大事な順序をはっきり示しています。
神さまは、私に愛を受ける理由があるから私を愛してくださるのではないのです。そうしたものがあってもなくても愛してくださるお方です。イエスさまが「天の父の御心を行う者だけが」  (21節)と問題にされている、神の愛の御心なのです。その愛で、私たちの心が満たされていく時に、その愛に応えるようにして、神を愛し、人を大事にする人へと変えられていくのです。

Ⅳ.よい実を結ぶために、よい木につながる

冒頭でご紹介したルーマニア正教会の兄弟は歴史のある正統的な教会につながることが大事なのだと一生懸命私に説いて聞かせました。私の方も由緒正しいカンバーランド長老教会に属する者として拙い英語で反論しました。でも歴史の長さを問題にされたら降参するしかありません。カンバーランドはたかだか200年ちょっと、高座教会も70年の短い歴史です。
でもそんな私たちの議論や交わりを御覧になったイエスさまは微笑みながら言われるのではないでしょうか。「この幹が正教会ではなくて、私自身が幹なのですよ。何故なら、私がぶどうの木、あなたがた正教会もプロテスタントもカトリック教会も、あなたがたは皆、私につながる枝です。だから、どちらが太いとか、細いとか、どちらがより幹に近い、いや幹から遠い枝の先の小枝かではなく、幹である私にしっかりつながっていなさい。あなたがたは私を離れては何をすることも出来ないのですから……」と。
イエスさまは、「良い木は良い実を結ぶ」と言われました。私たちは本当に的を外しやすい者です。ですから、良い木そのものであるイエスさまにつながり続けること。神さまのアガペの愛に留まり続けることです。そうすれば、私たちは必ず神の愛の御心を行う者へと造り変えられていくに違いありません。お祈りします。

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