しっかりとした土台のある人生
2018年10月28日 秋の歓迎礼拝
和田一郎副牧師
マルコによる福音書9章14~27節
1、信仰のない時代
今日は歓迎礼拝ですが、はじめて教会に来た方に、「信仰には力があるのだ」ということを知って頂きたいと思いました。信仰というのは、何か神聖なものを信じることを言います。つまり、自力本願か他力本願かといえば、他の力を頼って生きる他力本願に力があるのだという話しになります。日本の中では他力本願という言葉は、ネガティブな意味で使われると思います。「他人に迷惑をかけてはいけない」という価値観が大きいと思います。他人の力に頼らないで、自立することを重んじる価値観があると思います。ですから、それと「信仰には力があるのだ」という価値観は正反対のように聞こえますが、今日はこの「信仰の力」について、そして、その信仰がしっかりとした人生の土台になっていく、ということを考えていきたいと思います。
イエス様の弟子達が群衆に取り囲まれて、なにかを議論している様子でした。そこでイエス様が、「何を議論しているのか?」と聞かれました。すると答えたのは群衆の中にいた人でした。「先生、うちの子どもが霊に取りつかれております。取りつかれると、地面に引き倒して、口から泡を出し、体をこわばらせてしまうのです。そこで、この霊を追い出してくださるように、あなたの、お弟子たちに申しましたが、できませんでした。」と言うのです。弟子達には、悪霊を追い出す権能を、イエス様から与えられていたのですが、それをできずにいたのです。ここでは「霊にとりつかれた」とありますが、マタイの福音書の同じ箇所では「てんかん」という病気で苦しんでいると書かれています。当時の病気は悪霊によるものだと信じられていたようですが、この父親のように、病気の家族や友人をもつ人達が、イエス様の所に押し寄せて癒してもらいたいと思ってやって来ました。勿論、イエス・キリストという方は病気を治すだけの方ではありません。悪と罪が広がるこの世の中に、愛をもって救いと希望を与えるために来られた方です。世界を変える力と、人の命を取り扱う力をもったかたでしたから、病気を治すことも当然できたのです。
ところで、日本の国に住んでいると、病気を治してくれる神様とか、交通安全の神様、商売の神様など、いろいろな神様があります。とても分かりやすい神様です。人間の願いごとの数だけ神様がありそうです。ある意識調査がありました。
「あなたは何か信仰を持っていますか?」という意識調査です。信仰を持っているという人は30%位で、同じ調査を昭和20年代に行った時は、60~70%の人が、何等かの信仰を持っていると答えたそうです。この70年で日本人の信仰心が半分以下になった一方で、日本は豊かになりました。食べ物やモノが不足している社会ではなくなりましたが、70年前には無かった、新しいカタチでの「孤独」という問題があると思います。しかし、その救いを「信仰」に頼る人は少ないと言えます。
今日の聖書箇所で、病気を治せなかった弟子の話しを聞いたイエス様は「なんと信仰のない時代なのか」と憤りましたが、わたしたちも信仰の無い時代、信仰の無い地域に住んでいるといえます。22節で「おできになるなら、私どもを憐れんで助けてください」と、この病気の子の父親は言いますが、大多数の日本人にとっては、聖書の言葉も「おできになるなら」と言った程度にしか関心がないでしょう。
2、悪霊を追い出す神様
その後、イエス様は、その子の病を癒されました。病気の息子の父親が「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」といった、イエス様への願いが、病を癒すことにつながったので、この父親の祈りが聞かれた、「御利益があった」ようにも聞こえます。先ほども話しました、商売の神様、健康祈願の神様といった、具体的に何かを目に見える形で叶えてくれるものを「ご利益信仰」と言います。「ご利益信仰」には、宝くじや賭け事などの当たりを期待するような、危うさがあります。また、お守りを買うから、これこれを叶えてくださいと、神様と取引をするようにも感じます。しかし、この時のイエス様は、そのようなご利益を叶えたのではありません。イエス様はそういう方ではないのです。
3、病者の祈り
あるクリスチャンの病気を治して欲しいという、願いをこめた祈りの詩があります。
「病者の祈り」
大事を成そうとして、力を与えてほしいと神に求めたのに、慎み深く従順であるようにと、弱さを授かった。
より偉大なことができるように、健康を求めたのに、よりよきことができるようにと、病弱を与えられた。
幸せになろうとして、富を求めたのに、賢明であるようにと、貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得ようとして、権力を求めたのに、神の前にひざまずくようにと、弱さを授かった。
人生を享楽しようと、あらゆるものを求めたのに、あらゆるものを喜べるようにと、生命を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りは、すべてかなえられた、私はあらゆる人々の中で、最も豊かに祝福されたのだ。
(ニューヨークのある病院の壁に書かれた詩)
この詩に書かれた、私たちが信じる神様は、力を与えてほしいと神に求めたのに、弱さを授ける方です。富を求めたのに、貧困を与える方です。何のご利益もありません。神様は私たちの、願いどおりに答えられるわけではありません。もし私たちが、自分では良いものだと思っていても、本当は良くないものであれば、神様はそれを与えません。自分の思いとは違う、本当に必要なものを与えてくださいます。詩の最後にあるように「求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた」とありますように、願いが聞かれないことで、願いが叶うということに、私達クリスチャンがもつ信仰があります。
4、心の中の言い表せない祈り
私達の信じる真の神様は、神様と出会うには、必要な時があるのだと言われます。恵みに与るためには、必要な時があるのです。命とは何か。病に罹った意味とは何か。病を通して神様と出会わせ、神の恵みに与らせることがあります。病を通して、その人の心の中にある、言い表せない祈りを聞くと言うのです。それは、その人がこの世に、命を受けて生まれてきた理由と重なります。神様はこの世に命を受けてきた人々に、それぞれの価値を与え、最善な人生を用意されました。しかし、人の性質には、生まれながらの罪があるので、人生を通してどこかで神と出会う必要があります。神様に罪を赦し助けてもらう必要が、人生のどこかで必要です。喜びの中で神と出会う人もいれば、悲しみの代償を払って神様と出会う人もいます。そうして神様と出会って、神に近づくことでその人の歩みが永遠に祝福されるという、恵みに与ることができます。この詩を書いた人は、病を治して欲しいと祈りながら、その一方で、神様と近づいていく恵みに感謝したと思うのです。
わたしがこの詩を知ったのは、母の日記に書かれていたからです。母は私が26歳の時に、病気で天に召されましたが、母の1年間の癌との闘病生活は、私にとって信仰を知るきっかけとなって、現在の私があります。母がその闘病生活の中で書いた日記の中に、この詩が書かれていました。この詩は、病気と闘った母が遺してくれた詩でもあります。母は私が信仰をもつことを願っていました。母が天に召された後になって、私はやっと信仰を持つことができました。神様は、本当に無駄なことはなさらないのです。ちっぽけな人間の願い事でも、大きく豊かな恵みをもって応えてくださるのです。
今日のイエス様の話しの中で、父親には「信仰のないわたしを、お助けください」という信仰がありました。しかし、それはとっても小さな信仰でした。けれども、それが信仰である限り、神は力を現わされるのです。信仰の力とは、信仰をもっている人の力ではないのです。神様が持っておられる力です。信仰を通して、神の力が私たちに届くのです。信仰が小さいかどうかは真の問題ではありません。問題は信仰が有るか無いか、その有無の問題です。信仰さえあればそれがどんなに小さくても、神の大きな力が働かれるのです。「からし種一粒ほどの信仰があれば…あなたがたに、できないことは何もない。」とイエス様はおっしゃいました。救い主イエス・キリストは、この後、苦しみを受けて十字架で死なれました。弟子達とはいつまでも、一緒にいられませんでした。しかし、復活をされて、天に戻られ、そこで私たちを見守っておられます。わたしたちは、この方が救い主であるという信仰をもっています。この「信仰には力があるのだ」ということを、今日は知っていただきたいと思います。お祈りをいたします。