わたしはどこで生きるのか
和田一郎副牧師
創世記3章1~9節
2019年10月27日
1、自分の立つところ
先週、香港で行われたカンバーランド長老教会のアジア教職者修養会に出席してきました。香港では政府への抗議活動が続いていて、毎週若い世代の人達を中心にデモが行われています。香港の教会の中でも抗議活動に対する意見は複雑なようでした。中国本土からの締め付けが強まっていて、信仰の自由や礼拝の自由も本土のように厳しいものになってしまうのではないか、という不安があります。香港中会の議長でもあるウィリアム牧師は、抗議デモに参加している時の事を話してくださいました。デモを見守っていた時に雨が降ってきたそうです。傘を差したウィリアム先生の近くに一人の警官が立っていたので、そっと近寄って傘に入れてあげたのだそうです。警備中の警官は「ありがとう」という目線を送ってきたそうです。中国と香港との、一国二制度という捻じれの中で葛藤している人々と接した中で、ウィリアム先生の話が心に残りました。
ウィリアム牧師も警官も、二人とも香港で生活をする香港人です。しかし、二人は立場が違いました。抗議する側と取り締まる側。それぞれ、家族の中の父であったり、夫であったり、一人の男であり、アジア人です。いろいろなアイデンティティの中でその日、その時の、二人の立ち位置は抗議する側と取り締まる側という立ち場の違いがありました。わたしたちは、自分の生きる立ち位置を、どこに置くかによって人生は変わります。
いま皆さんは教会で礼拝していますが、ここで今携帯電話にメールが入ってきて「今どこにいるの?」と聞かれたら、どう答えるでしょうか。もし、答えるとしたら、「今わたしは教会にいます、礼拝に出ています」と答えるでしょう。いま皆さんは、休みの日の日曜日に、ショッピングモールに行ったり、仕事に行くのではなくて、礼拝に来ています。自分で立つべき場所を選んでここに居るわけです。今日初めてこの教会に来られた方も、誰かの誘いや、ご自分の思いがあって来られたと思います。礼拝というのは、神の前に立つということです。今日は私たちはどこに立つ者なのか、どこに立ちながら生きていくのか。人生の立ち位置を、聖書から考えていきたいと思います。
2、「どこにいるのか?」
今日の聖書箇所は創世記のアダムとエバの話です。アダムは神様が造られた最初の人間です。神様が人間を造った時、神様はご自身に似た性質を、人の身体の中に吹き込んで下さったのです。ですから他の生き物と比べて人間は、どこか特別に感じると思うのですが、それは、私たち人間が神様に似た性質として造られたからです。
その神に似た性質というのは、まず愛し愛されるという性質です。そして善を行うこと、悪を良しとしないこと、そして自由な意志も神様と似た性質として人に与えられました。自分で選ぶことができるという自由が人間にはあります。
そして、人間を造られた時、それには目的がありました。人間を造る理由と目的があったのです。旧約聖書の詩編に「主を賛美するために民は創造された」(詩編102編19節)とあります。つまり「神様を敬うように人間は造られた」ということです。もっとくだけた言い方をしますと、神様は、ご自分と親しく信頼し合う相手として人間を造ったということです。
かつて、エデンの園というところで、アダムとエバは、まさしく神様と親しい関係にありました。おそらく神様と顔と顔を合わせるように、身近な存在として生きていたのです。その時の立ち位置は、神の前にいた。神様の前に立つ者でした。ところが、二人は神様との約束に背いて、禁じられていた木の実を食べてしまったのです。自分で選べるという、自由意志を間違った使い方をしてしまい、神に背いてしまいました。これが最初の罪、原罪という罪です。罪を犯した二人は、恥ずかしくなって木々の間に隠れました。この時、立ち位置が変わってしまったのです。ふたりはコソコソと隠れなければなりませんでした。その隠れている彼らに、神様は「どこにいるのか?」と尋ねたのです。神様は、二人が約束を破ったということは分かっていながら、あえて「どこにいるのか」と尋ねたのです。「あなたはそこで何をやっているのか」という、二人が立っている位置を問いただしたのです。「いつも私と向き合っていたではないか、あなたは、いったいそこで何をしているのか?」・・・。
みなさんは、今日、アダムとエバのように隠れるのではなくて、神様の前で礼拝をしています。しかし、礼拝が終わってからの一週間はどこにいるでしょうか。家にいても、学校にいても、職場や遊びに行っている時も、自分の立ち位置は自分で選べます。神様から与えられた自由な意志で立ち位置を決められます。神様と共にいることもできますし、神様に背中を向けることもできます。あなたはどこに立って生きるでしょうか。
3、ふさわしい場所
先日、映画を見ました。「イエスタディ」というロックバンドのビートルズを扱った映画です。シンガーソングライターの主人公の青年は、売れなくて、もうミュージシャンを辞めようと思っていました。
ところがある日、世界中で謎の大停電が起こって、以前とは少し違う世界に代わってしまったのです。それはビートルズというロックバンドがいなかったという世界です。ですからビートルズの名曲も存在しない世界です。主人公が、ビートルズの曲を歌うと、周りの人は「素晴らしい」と言って驚き、曲は大ヒットして、彼は大スターになっていくのです。しかし、彼には不安が湧き起こってきます。自分が作った曲ではないのに自分が作ったかのように振る舞う日々です。この主人公の偽りの生き方がいつまで続くのだろうと、見ている方も不安になってきました。主人公はとても優しくて、ビートルズの曲を心から愛する純粋な青年です。しかし、本来の自分ではない、偽りの自分が評価されて成功をおさめていく。しかし、そこで彼の生き方を変えたのが、ある人との出会いでした。その人と出会ってから、彼は真実を告白します。「これは自分で作った曲ではありません。みんなが知らないビートルズというグループの曲です。今日から無料でネット配信します。もう自分のことを天才のように誉めないでください」。と言うのです。その日から、彼はビートルズを愛する一人のファンという立場になりました。ファンとしてビートルズの素晴らしい曲を伝える者という、彼にとって相応しい立ち位置を見つけたわけです。彼は見違えるように、生き生きと人生を歩み始めました。彼を変えたのは、ひとつの出会いです。私たちの人生においても出会いは大切です。
今日、はじめて教会に来られた方も、いま神さまに出会っていると言うことができます。もし、皆さんが神さまのことに、興味をもたずにこの時間を過ごしてしまうなら、それは、大切な出会いのチャンスに気付かずに、通り過ぎてしまうことになります。しかし、神様は話しかけておられます。 私の前に立ちますか、それとも隠れていますか。
「あたなは、どこにいるのか」。
4、求めよ、そして生きよ
先ほど、N神学生がご自分の証しを話してくれました。神様は、彼にいつも語りかけていることを知りました。「求めよ、そして生きよ」(アモス書5章4節)という言葉です。それはわたしたちにも同じように語りかけています。神様は、この自分を求めなさい、そして生きなさいと言われます。愛をもって私たちを造り、私たちに、この人生を与えてくださった真理である神を求めなさいと言うのです。この語りかけ、この出会いを大切に受け止めて頂きたいと思うのです。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(ルカ福音書11章9節)。
与えられるのは、永遠の命です。聖書で語られる永遠の命とは、この世の寿命のことではありません。神の教えに従い、この世の中で自分に与えられた役割を生きるという命です。自分や周りの目を気にして、勝手に作りあげた偽りの生き方ではなく、神様から与えられた自分らしい生き方を歩むことです。その生き方には平安と希望があります。
「求めよ、そして生きよ」と語られた、生きるという意味を、自分の知恵ではなく神に求める。
そこに救いがあります。永遠の命を、いま生きる。そこに立つのです。
人生の困難や災いは、残念ながら防ぐことができません。しかし、わたしたちは自分の立ち位置を選ぶことができます。そこでは癒しと安らぎを得ることができます。生きるべき場所があり、生きる目的があります。それが永遠の命です。この一週間、神に求めていきましょう。そして、与えられた命を、生きていきましょう。お祈りをしましょう。