イエスの昇天
2019年1月6日
松本雅弘牧師
詩編110編1~3節
使徒言行録1章1~11節
Ⅰ.「使徒言行録2章の教会」の誕生
新年、あけましておめでとうございます。今年の主題聖句は、使徒言行録2章17節、「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」。そして、主題は、「私たち、集い喜び分かち合う―使徒言行録2章の教会をめざして」です。
今年のテーマの副題に「使徒言行録2章の教会をめざして」とありますが、そのめざすべき「使徒言行録2章の教会」とは、そもそもどのような教会なのか、年の初めにご一緒に考えてみたいと思います。
4節に「父の約束されたもの」という言葉が出てきます。これはイエスをキリストと信じる者、そしてその共同体に与えられる聖霊です。
聖霊降臨という、ペンテコステの恵みにあずかったクリスチャンや、信仰共同体の様子について、使徒言行録は2章42節以下に紹介しています。そして、その恵みは、2千年前のペンテコステの日に誕生したエルサレム教会ばかりではなく、同じ聖霊なる神さまを内側に宿す私たち高座教会にも現れる恵みであることを覚えたいと思うのです。いや覚えるだけではなく、これからも、そうした恵みにあふれた教会として歩んでいきたい。そのような意味で、ぜひ、「使徒言行録2章の教会」をめざしていきたいと願うのです。
さて、主イエスは罪の赦しのために十字架の死を遂げてくださり、その3日後に、いのちを与えるために復活してくださったのです。
その後40日間にわたって「父の約束したもの」を待つようにと弟子たちに告げられ、そして昇天されました。
弟子たちは、復活の主の証人となるため、キリストに倣い、キリストに似たそれぞれとして生きるために、主の約束、聖霊降臨を待ち望んだのです。
Ⅱ.父の約束の目的
「主よ、イスラエルの国を立て直してくださるのは、この時ですか」(1:6)。この時の弟子たちの関心事が明らかです。それはイスラエ
ル国家復興ということでした。
しかし、これに対して、主は、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(7、8節)と言われ、弟子たちが知っておくべきことを語られたのです。それが復活の主の証人となるということです。つまり、クリスチャンとは復活の主イエス・キリストの証人となるようにと生かされているということです。そして、このために父の約束の聖霊降臨が起こるのだ、とおっしゃったのです。
Ⅲ.復活の主の証人となるために
確かに物事には順序があります。弟子たちは、「いま、この時」、イスラエル王国の復興を願いましたが、主イエスはまず「あなたがたが、わたしの証人として、神の国、神の恵みの支配を、あなたがた自身とその周囲に拡げていく。それによって神の国は前進し、実現していくのですよ」と教えられました。そのために聖霊を遣わすと言われたのです。
ここで心に留めるべきことがあります。それは、証しの生活をするとは、聖霊の力によるのだ、ということです。
今年も、まだ5日しか経っていないにもかかわらず、すでに真っ白なキャンバスに落書きをしてしまったような、ああ、またやってしまった、とか、また言ってしまった、とか、そうした後悔すべき言動が、自分の中にもうすでに起こっているのではないかと思わされます。
聖書は、私たちが召されたのは一方的な恵みの故なのだと断言します。例えば、私たちが受洗してクリスチャンになったのは、洗礼を受ける前から、ある種の「クリスチャンらしさ」、とか「何らかのふさわしさ」があったので、神さまはそれをご覧になって、「よし」と認め、クリスチャンになることを承認してくださったのでしょうか。そうではありません。
主が十字架にかかり、私たちの過去、現在、そして、将来、犯すであろう罪を贖ってくださったキリストの救いの御業によって、罪赦され、義と認められたのです。一方的な、神の恵みと憐れみによって、クリスチャンとされた。神の子、主の弟子とされたのです。ですから、クリスチャンでありながら情けない自分自身を発見するときに、そうした私たちであるからこそ、キリストの十字架があった。それだからこそ、キリストが代価を支払ってくださった。そして、もはや私たちは神の子、主の弟子にされたのだ、と覚えたいのです。
そして大切なのは、その次です。そこまでして、神が私たちを愛してくださったのは、神さまの私たちに対する願いがあるということです。その願いとは、いただいている、その素晴らしい神の恵みを独り占めするのではなく、そのことを知らない家族や友人、そしてまた地域の方たちと分かち合って生きていく、ということです。
8節には、「力」という言葉が出てきます。原文を見ると、英語の「ダイナマイト」の語源となる「デュナミス」というギリシャ語が使われています。あらゆるものをつくりかえる、そのような物凄い力を、主は約束されているというのです。
この時の弟子たちは、こうした力をいただくために、具体的にすべきことを主から示されていました。それが4節、5節にある主イエスの命令の言葉、「エルサレムを離れないで、父の約束された聖霊の賜物を待ち望む」ということです。
12節を見ると「使徒たちは、『オリーブ畑』と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た」とあります。つまり、弟子たちは「エルサレムを離れないように」という主の御言葉に従って、「エルサレムに戻って来た」と、使徒言行録を書いたルカが伝えているのです。
この時の弟子たちからすれば、エルサレムはイエスを殺した張本人たちが大勢いたところです。自分の身の安全だけを考えたなら、一刻も早く逃げ出してしまいたい場所です。でも主の約束がありましたので、また「エルサレムを離れないで」という主のご命令でしたので、「エルサレムに戻って来た」のです。
「あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。・・・また地の果てに至るまであなたがたは力を受ける。」(8節)
7節と8節の御言葉を語り終えた主は、その後、弟子たちが見ている中、天に昇られて行ったのです。9節から11節にそのことが出てきます。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」(9節)
Ⅳ.むすび-約束にとどまることの大切さ
主イエスさまは、復活の主の証人として弟子たちを召されました。
「証人」という言葉は、この後、教会の歴史において「殉教」をさす言葉として使われていきました。確かに、この後の教会の歴史を見るならば、それは「殉教の歴史」でした。そして、そうした信仰の先輩が命をかけ、生活をかけて次世代に信仰のバトンを手渡していきました。
今、こうして、エルサレムから見れば地の果てに住んでいる私たちが、信仰を持って生きることができるのも、私たちを愛し、私たちのことを大事に思ってくださった誰かが、イエスさまのこと、聖書の福音を伝えてくれたからでしょう。誰かが私たちのために、主の証人に徹してくれたからです。
もう一度、8節をご覧ください。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力(デュナミス)を受ける」と、主は約束してくださいました。「そして、エルサレムばかりではく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」とおっしゃっています。
この「使徒言行録」の記録は、聖霊を受けた弟子たちが、エルサレムから始まって地の果てであるローマにまで福音を伝えていった。まさに「聖霊行伝」と呼ばれる所以です。
今日、この御言葉を読む私たちが心に留めなければならないこと、それは、彼らを聖なる力、宣教の力で満たした同じ聖霊なる神さまが、あなたの心に宿っておられること、この高座教会の交わりの中にも臨在してくださっているという現実です。
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(1コリント6:19-20)
私たちは、この聖霊の働きのリアリティーを感じたいのです。本当に、この「聖霊の命」がすみずみまで息づく教会へと造り変えられたいのです。
主は、ダイナマイトのような聖霊の力を約束してくださっていますから、この御力を経験させていただきたい。その御力とは聖霊の力ですから、あの聖霊の実を実らす愛の力であり、謙遜の力であり、忍耐の力であり、節制の力、平和の力なのです。
そのような力を常にいただくために、ぶどうの木であるキリストにつながる1年の歩み、そして、この週の歩みでありたいと願います。
お祈りします。