人の心を知っておられるお方
松本雅弘牧師
エゼキエル書36章25-36節
ヨハネによる福音書2章23節-3章2節
2022年11月13日
Ⅰ. イエスは彼らを信用されなかった
宮清めの直後、主イエスは過越祭りの期間、エルサレムに滞在しておられたのでしょう。当然、ユダヤ全土から、それ以外の地域からも大勢の人々が集まっていた。今日の聖書の箇所はまず、その時の主イエスの様子を伝えようとしています。「過越祭の間、イエスがエルサレムにおられたとき、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエスご自身は、彼らを信用されなかった。それは、すべての人を知っておられ、人について誰からも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」(2:23―25)
主イエスのエルサレム滞在中、多くの人々が主イエスのなさった「しるし」を見て、「イエスの名を信じ」たというのです。それがどんな「しるし」、言い換えれば奇跡だったのかは書かれていませんが、そうした不思議な業を見た人々が、それも「イエスの名を信じた」というのです。不思議な業を次々としている「イエス」という名の男を「救い主/メシア」に違いないと信じたのだ、というのです。
ただ、気になる言葉が続きます。「しかし、イエスご自身は、彼らを信用されなかった」というのです。興味深いことに、原文のギリシャ語を見ますと、「多くの人々がイエスの名を信じた」の「信じた」という言葉と、「イエスご自身は、彼らを信用されなかった」の「信用される」という言葉が全く同じギリシャ語なのです。つまり、多くの人々は主イエスを信じたけれども、主イエスのほうでは彼らを信じなかったと対比されてる。対になっているのです。なぜでしょう。その理由についてヨハネは、「イエスは、何が人の心の中にあるかをよく知っておられた」からだと説明します。
Ⅱ. ニコデモの信仰告白
さて、今日の箇所を読み進めてまいりますと、主イエスが信用しておられない人間の代表としてニコデモという人が登場します。彼は一体、どういう人物でしょう。
ヨハネ福音書によれば、彼は「ファリサイ派の一人」で、さらに「ユダヤ人たちの指導者」だったとあります。新共同訳聖書では「議員」と訳しています。
しかし、当時のユダヤでは政教分離の原則はありません。政治のことは勿論、信仰の事柄についても取り仕切っていたのが「サンヘドリン」と呼ばれるユダヤ最高議会でした。ですから彼は、そのような高い地位にいる人物でした。
そのニコデモが、イエスのところにやって来て、「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです」と語ったというのです。
ここで注目したい点があります。ニコデモが主イエスの許に行ったのが「夜」だった点です。何故、夜だったのでしょうか。一つ考えられるのは、ニコデモは世間の目をはばかった、恐れたのではないかということです。彼はユダヤ議会のメンバーです。地位や名誉もありました。その彼が評価の定まっていないガリラヤ出身の「イエス」という名の貧しい伝道者に教えを乞いに出かけたことが噂にでもなれば結構厄介だったからでしょう。しかし、この時のニコデモはそれでも止めにしようとはしなかった。姿が見えにくくなる時間帯を見計らって主イエスのところに行ったのです。それだけ本気だったのでしょう。
Ⅲ. ニコデモの信仰
ただ、その結果、主イエスとニコデモとの間にどのようなやり取りがあったかと言えば、まさに禅問答のようでチグハグなのです。主イエスの言わんとすることを、正直、ニコデモはあまり理解できていなかったのではないかと思います。
でも主イエスは、そのニコデモを退けるのではなく、彼としっかりと向き合ってくださった。
福音書を読んでいきますと、この後、ニコデモは主イエスの歩み、また十字架を目の当たりにしたのだと思います。そして最後の最後に行動に出たことを、ヨハネ福音書は私たちに伝えています。主イエスの遺体を葬るために、「百リトラ」、およそ三十キロある没薬とアロエを混ぜた物をもってやって来たのです。
これまでニコデモは自らの主イエスに対する信仰は完全ではなかったかもしれませんが、その「信仰」を公けにはしていません。でもいざとなった時に、悔いが残らないように、自らの良心に忠実に行動した。そのことがヨハネ福音書に残されているのです。
ニコデモの心のうちには、あの晩の出来事が鮮明に浮かび上がっていたのではないでしょうか。暗闇の中、鋭く光る目をもって語られた主イエスの言葉、「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者は誰もいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:13~15)この言葉があの晩以来ずっと心に引っ掛かり迫り続けていたのではないか。そして現に「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」というあの言葉が目の前に展開された壮絶な十字架の出来事と一つになった。だからこそ〈今、そのお方の遺体を引き取りに行かなければ、一生後悔する〉、そう思って、やって来たのではないでしょうか。
Ⅳ. ニコデモを愛される主イエス
ニコデモが、あの夜、主イエスを訪ね、「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」そう語りかけました。
今日、お読みしませんでしたが、それに対して主イエスは、「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とおっしゃった。聞いたニコデモは「馬鹿馬鹿しい!」と、今まで自分が信じてきたファリサイ派の教えに従って笑い飛ばすこともできたでしょうが、主イエスの言葉を大変真面目に受け止め、「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか」と主イエスに訊き返しています。
この主イエスとニコデモとのやり取りについては、来週、取り上げたいと思います。ただ、私は、ニコデモに感謝したいのです。この時、彼が勇気を出し、主イエスを訪ね、心の中にある思いを正直にぶつけたので、この後、ヨハネ福音書3章16節の大切な御言葉、「聖書の聖書」と呼ばれるような御言葉、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」が、このヨハネ福音書の中に残されたということでしょう。
確かにニコデモと主イエスとの会話は最後までちぐはぐです。しかも「イエスご自身は、彼らを信用されなかった。それは、…何が人の心の中にあるかをよく知っておられた…」。そうした人々の代表として、ここでニコデモが紹介されている。ただ、改めて心に留めたいことがあります。それは、私たちの心をご存じの主イエスさまは、そうした私たちの心の中にあるドロドロをご覧になって、だからあなたがたは愛せない。いや、信用しないから嫌うとはならず。
この福音書を記したヨハネは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と語るのです。
最初の出会いの時、ニコデモと主イエスの会話はちぐはぐで、よく分かっていなかったかもしれない。でも主イエスは、そのニコデモをご覧になり、「中途半端な信仰だね」と心の中で裁き、冷ややかに突き放したのではないのです。むしろニコデモをご覧になった主イエスのまなざしは実に温かく慈しみに満ちておられたのではないでしょうか。そしてその温かさ、そのご慈愛は、あの晩、確実にニコデモの心を捕らえたに違いない。
2章25節を見ますと、「イエスは、何が人の心の中にあるかをよく知っておられた」と語られていますが、にもかかわらず、主イエスは徹底して、最後まで弟子たちを愛し抜かれました。他の人をも同様に愛されるのです。
この後、ヨハネ福音書を読み進めてまいりますと、13章1節に次のような言葉が出て来ます。「過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた。」
主イエスというお方はそのようなお方。そのお方が、常に私たちと共におられ、私たちを愛してくださっている。そのお方に従って、この一週間も歩んでまいりたいと思います。
お祈りいたします。