信頼から生み出される愛の恵み

2018年10月21日 秋の歓迎礼拝
宮城献伝道師
ルカ19章1~10節

Ⅰ.ザアカイの物語について

今回の説教で与えられました新約聖書のみ言葉は、ザアカイの物語です。教会で、とても良く聞く聖書のお話の一つです。高座教会の教会学校でも、何度もなんども、語られてきました。その分だけ、教会が、そしてイエス様を信じる私たちが、とても大切にしている聖書の物語です。
イエス様と出会い、変えられていったザアカイを通して、子どもの時であろうと大人になったとしても、いつであっても変われるのだ、と気づかされるのです。あのザアカイだって、イエス様と出会い、心から人を愛することが出来るようになった。そうして、その愛を形にするために、貧しい人に施しを、そして今までの過ちを取り返す働きをしよう。このように、あのザアカイだって変われたのだから、自分だって変わることが出来るのだと、励まされ勇気づけられるのです。
では、ザアカイは、なぜそのように変えられていったのでしょうか。

Ⅱ.徴税人で金持ちのザアカイ

ザアカイは、徴税人という仕事をしていました。それは、イスラエルを支配していたローマへの税金を集める仕事です。その仕事は、異国のために、同胞からお金を取り上げることで、卑しいものだと考えられていました。そうして、ザアカイを始め、その仕事に従事している人たちは、罪人だと言われ、同胞の人たちから、つまはじきにされていました。
けれど、そうやって仲間外れにされることで、彼らは自分たちが価値の無い者なのだ、と思わされていました。そのために、彼らは自分たちの価値を見出せるものを探さなければならなかったのです。それが、結局は自分たちの力で手に入れることの出来たお金だったのです。そうして彼らは、必要以上に税金を取り上げたのです。もちろん、その様にしていれば、また一層、仲間たちから嫌われてしまいます。
聖書でザアカイは、その「徴税人の頭」であり、そして、「金持ちであった」と紹介されています。徴税人の頭ですので、嫌われ者の中の嫌われる者であったこと。そして、みんなから嫌われてしまうことへの反動から、より多くの税金を取り、そのために金持ちであったこと。これらのことを聖書は示しているのです。

Ⅲ.ザアカイの友にならなければならない

そんなザアカイが住む町に、イエス様がやってこられるのです。イエス様は、その町に来る前にも徴税人たちの家に行かれ、食事もしていました。今でもそうですか、人のお家に上がり、食事をすることは、親しい友人関係でないとなされません。ですのでイエス様は、嫌われ者とも友になり、食事をともにされていました。このことは当時のイスラエルでは、衝撃的な出来事です。徴税人は罪人とされていたので、一緒に食事をした人も同じ罪人とみなされてしまうからです。けれどイエス様は、彼らの誘いに応えて彼らの家に出向き、食事をともにされていました。そうして、その出来事のインパクトゆえに、徴税人の一人であるザアカイのもとにもイエス様のことが耳に入っていたのでしょう。そして、ザアカイはそんなイエス様を一目でも見たい、と思い行動を起こすのです。
けれどザアカイの前には、大勢の群衆です。小柄なザアカイは、イエス様を見たくても見ることが出来ません。そして、この場面は、よく教会学校の絵本などでも登場しますが、ザアカイと、彼を取り巻く人たちの関係をうまく表現しています。その絵本では、小柄のザアカイの前に、群衆が壁のように立ちはだかっている様子が描かれています。彼らは、イエス様の方を見つめているので、誰もザアカイを見ていません。そうして、ザアカイが、仲間たちから、つまはじきにされているイメージが強く喚起されます。群衆が、ザアカイにそっぽを向いていることで、ザアカイはまるで存在してないかのように扱われていることが分かります。また、群衆という壁の外にザアカイが立たされることで、彼が仲間たちの中に入れていないことも明らかにされます。
そうしてザアカイは、その壁の前で誰にも構ってもらえず、行ったり来たり、うろうろと困っていたのでしょう。けれど、彼は、諦めの悪い人でした。いちじく桑の木にひょいと登って、イエス様を見ようとします。
こういったザアカイの必死な様子から、彼がぐっと身近な存在のように感じられてきます。私たちも何かに必死になっている時に、後から振り返るとそこまでするか、と思うことがありますが、そんな時の自分たちの姿は何かと滑稽ですが、その分だけ愛おしく思われることがあるのではないでしょうか。
そして、そんなザアカイに、イエス様は暖かな眼差しを送られるのです。イエス様は木の上にいるザアカイに近づき、こうおっしゃられました。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。家に出向き、食事をともにすることは友人の証です。しかも、ここでイエス様は自らザアカイの家に泊まるとおっしゃっています。普通は、家の主人が食事に招きます。けれど、イエス様から、ザアカイの家に出向くとおっしゃられています。厚かましいようにも思えますが、イエス様は、自分自身から、ザアカイの友になろうとされたのです。
それだけではありません。私たちの聖書では、「あなたの家に泊りたい」という訳になっています。ですが、聖書のもともとの言葉を見てみますと、ここでは、「あなたの家に泊まらなければならない」という意味のほうが、より相応しいものになります。そのために、英語の聖書では、「泊まらなければならない」という所には、mustという言葉が用いられています。そうしますと、ここで、イエス様は、「ザアカイの家に泊まらなければならない」とまで、おっしゃられていたのです。
ザアカイは罪人でみんなの嫌われる者です。だけどどうした。そんなこと関係ない。私は、「ザアカイの友にならなければならないのだ」と、イエス様はおっしゃられていたのです。

Ⅳ.変わることが出来る:友が与えられたので

この時、ザアカイは、始めて本当の友が与えられたのです。本当の友とは、その人が金持ちであるとかそうではないとか、周りの人に好かれているとか、そうではないとか、関係ありません。それはイエス様が生きておられた時代から、私たちが生きる今の時代まで変わらないことです。ただただ、その友が友であるがゆえに愛し、愛されるのです。
そうしてザアカイは、もう大丈夫だ。自分の価値をお金なんかから見出さなくていいのだ。イエス様が、自分の友になってくれたのだから。もう何も不安に思うこともない。ザアカイには、イエス様という心から信頼出来る友が与えられたのです。
そうして、彼に勇気が与えられたのです。今まで自分を支えてきた、そのお金を投げ捨てでも、困っている人を助けていく。それだけではありません。多くの人から必要以上に税金を取ってしまった自分の過ち。そのせいで、生活に困ってしまう人がいるかもしれない。だから、そういった人にはしっかりとお金を返していかなければならない。
そして私たちも、このザアカイのように、変われるのではないでしょうか。まっすぐに人を愛し、過去の過ちを悔い改め、そしてその愛を具体的な形にしていくことが出来るようになるのです。
もちろん、そうはいってもそんな簡単に人は変われないよ、と思うかもしれません。けれど、どうでしょう。人は変わることが出来ない、と誰よりも思い込んでいたのは、ザアカイ本人ではないでしょうか。彼は誰からも愛されていなかったので、自分には価値がないと思っていました。だから、そんな自分が変わっていくことなど、無理だと思い込んでいたはずです。
けれど、そんなザアカイにイエス様は「あなたの友にならければならない」とおっしゃられたのです。なぜでしょうか。その理由が10節にあります。イエス様は「失われたもの」を探して救い出すために、この世界に来られたというのです。仲間たちから罪人だとみなされ、仲間外れにされてしまい、神様から見放されてしまったと思われていたザアカイ。そのような「失われたもの」のために、イエス様は、この世界に来られたのです。
そうだとしましたら、私は変わることなんて無理だと、ザアカイと同じように思ってしまう。「失われた」ザアカイと私たちをも、探して、救い出すために、イエス様はこの世界に来て下さったのです。
そしてイエス様は、今、私たちにも「あなたの友にならなければならない」と語りかけて下さるのです。そうして私たちには、本当に信頼できる友がいるのだ、と気づくことが出来たなら、ザアカイのように今までの生き方を変えていく勇気が与えられるのではないでしょうか。そしてそれが、イエス様を信頼し、歩んでいく幸いです。

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