救い主の系図

松本雅弘牧師 説教要約
創世記11章31節-12章9節
マタイによる福音書1章1-17節
2023年12月3日

Ⅰ. マタイの「つかみ」

よくスピーチやプレゼンテーションで、最初に何をお話するか、「つかみ」の部分はとっても大切だと言われます。
ある専門家は、「最初の10秒が肝心。最初の10秒で相手の心を掴むように」と語っていましたが、その点、私は本当に「つかみ」が下手だ、とよく思います。ただ、もっと下手な人がいた。それが今日の、この福音書を書いたマタイなのではないでしょうか。
しかし、準備をしながら改めて知らされたわけですが、このマタイの書き出しは、超一流の「つかみ」、「最初の10秒が肝心。最初の10秒で相手の心を掴むように」との専門家のアドバイスがありましたが、マタイにとっては10秒も要らない、僅か1、2秒で、当時の読者の心を鷲掴みにするほど衝撃的な書き出しになっていることが分かるように思います。

Ⅱ. イエスはだれかを示すための「系図」

イエスさまの時代、今と大きく違う点は、その人がだれであるのかを、その人とその人が属する一族や家族とのつながりで理解し判断しようとしていた時代でした。
この福音書を書いたマタイは、福音書の冒頭をこのような仕方で書き始めることで、イエスがいったい誰なのかを、この系図を通して示そうとしています。
そうした中、当時ユダヤ人には一つの共通理解がありました。神は自分たちのイスラエルの父祖であるアブラハムとその子孫であるイスラエル民族を祝福の源として選ばれたこと、そしてもう一つ、そのイスラエルの民の中からダビデの家系をさらに選び、彼の子孫の中から王なるメシアを興すことを約束された。これが、当時、旧約聖書に親しんでいたユダヤ人たちの共通理解であり、誰も異論を唱えない常識でした。当時のユダヤ人は、当然、旧約聖書の権威を今の私たち以上に受け入れていたわけですから、その彼らが権威を認める旧約聖書に紹介されている特別な家系の中に、イエスという人物が誕生したことを、言い換えれば、あのイエスという名の人物が、神さまがお選びになったメシア・キリストであることをマタイはこの系図を通して示したかったでしょうし、当然、この系図を見せられた当時の人々は、そのことの意味を理解したことだと思います。

Ⅲ. ユニークな「系図」

ところが、ユダヤ人の系図のはずなのに、おかしなこともある。それは、本来、ユダヤの系図は男性だけで綴られるはずであるのに、女性の名前が出てくる。それも4人も登場する。3節のタマル、5節のラハブ、同じく5節のルツ、そして6節に登場する「ウリヤの妻」、名前は伏せられていますが、「バト・シェバ」という名の女性です。しかも彼女ら4人は曰(いわ)く付きの女性たちばかりです。
最初の3節のタマルは遊女になりすまして、しゅうとのユダと関係して子をもうけた女性で、次のラハブは、エリコの町に住む正真正銘の遊女でした。3人目のルツは、旧約聖書のルツ記の主人公ですが、彼女はイスラエルの集会に決して加わってはならないと規定されていた、異邦人モアブ出身の女性です。そして最後、4人目の「ウリヤの妻」とだけマタイが記す女性は、「バト・シェバ」という名で、夫の留守中にダビデ王と浮気をし、後にダビデの妻となった女性した。
あるドイツ人の専門家が、「ダビデがウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とマタイ福音書が、バト・シェバという名前を出さず、「ウリヤの妻」と記した背景には、このウリヤが異邦人であったことを伝える意図がマタイにはあったのではないか、と。
確かに旧約聖書には、ウリヤがヘト民族という異邦人出身です。純血を大事にしていたユダヤ人の系図に、ダビデが、「ユダヤ人でない異邦人のウリヤの、その妻によって」、つまり言い換えるならば「ウリヤの妻」であってもダビデの妻ではなかった、その女性によって子をもうけた、ことをも伝えようとしていたのではないでしょうか。とすればこの系図は女性の罪の物語ではなく、当たり前ですが男性も罪を犯しているのがはっきりとしている系図だと語っています。
 確かにダビデ以降、この系図はイスラエルの王家の系図となります。そして登場する名前の人物を旧約聖書で調べてみると、ダビデのように女性関係で罪を犯す人ではなかったとしても、神との関係においてはどうだったか、と思わされます。主なる神さまの国イスラエルの、その王たる者がどうして、と呆れてしまうような出来事の連続なのです。
預言者ホセアは、主なる神を捨てて別の神々に走る人々の姿と自分の妻の不貞を重ね合わせ、姦淫の罪として糾弾しましたが、イスラエルの歴代の王たちは女性関係で節操を欠いただけではなく、神との関係において著しく節操を欠く、言わば、「信仰についても浮気の歴史」がここに出て来る。その行きつく果てが12節。バビロン捕囚だったのです。
ですから、この系図で12節以降、ここに出て来る名前の人物を旧約聖書の中で見つけ出すのは難しくなります。何故なら、これ以降、ダビデ王家の血筋が、歴史の書物には登場しない、言わば無名の人々へと落ち込んで行くからです。
そしてやがて、その血筋に生まれたヨセフはナザレの大工だったとマタイは語る。大工が王様に出世していく成功物語、王の末裔が没落して大工となった「ファミリーヒストリー」がここにある。勿論、大工の仕事は尊い働きです。でも王さまの血筋を誇る者が喜んでするような仕事ではなかった。そうした没落の道筋がこの系図によって明らかにされていく。その大工ヨセフの子としてイエスさまが誕生したのだ、とマタイは伝えるのです。
そして17節で、系図を総括するように、「14代、そして14代、そしてさらに14代」とマタイは書いています。素晴らしい王家の血筋を引いていると思っていた者でも、「叩けば埃が出る」と言われますが、重なれば重なるほど、次第に見えて来るものがある。ごまかしもあるでしょう。
私たちの救い主イエスは、そうした私たちの営み、歩みの只中に入り込んできてくださった。それも、どこまで入り込んで来られたか、と言えば、あの十字架の死に至るまで入り込んでくださったのです。
これから始まるマタイ福音書は、この王家没落の系図が大工の子で終わるのではなく、その大工の子が十字架で犯罪者として処刑されていく、そうしたスト―リーなのです。
当時のユダヤの人の物の考え方からすれば、後にこの系図の16節と17節の間には、「ヨセフからイエスが生まれた、このイエスは死刑になった」と書き続けられておかしくない。だとすれば、人目から一番隠しておきたい人の名前が、ここに出てきてしまった状態の系図だと言えるのです。でも、これが私たち人間の現実なのではないでしょうか。

Ⅳ. 神が用意された救いの歴史を伝える「系図」

私たちは、アドベントの季節を迎えた。アドベントは主イエスの降誕を待ち望む季節です。でも、そもそも何故、神の独り子が飼い葉桶にお生まれになったのか、いや、そもそも何故、十字架で処刑されなければならなかったのか、と言う問題です。
聖書は、(ヨハネ3:16)「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と語ります。私たちが滅びないように、神が私たちを愛してくださったからだ、というのです。
私たちの喜びの源は主イエスに愛されていることです。それも飼い葉桶に生まれ、十字架で命を捨てるほどに愛してくださっていることです。そして、その愛とは、赦しの愛です。アドベントは飼い葉桶の主を待ち望む時です。このお方が私たちの心の、人生の、一番の中心に来ていただきたいと願います。
お祈りします。