救い主への捧げもの
2018年12月16日
第3アドベント
松本雅弘牧師
イザヤ書63章15節~64章8節
マタイによる福音書2章1~12節
Ⅰ.クリスマスに喜び?
街のあちこちでクリスマスが語られる時、それは喜びを映し出しています。テレビのどのチャンネルを観ても、そこにあるのは「喜び一杯のクリスマス」です。でも、今日お読みしたマタイによる福音書2章1節から12節では、喜びと正反対の出来事や言葉が溢れています。
ヘロデ王の心に不安がよぎり、それが殺意に発展し、その結果さらなる不安、恐れ、悲しみが拡がっていきました。そうした暗闇のような空気が満ち満ちているのが、今日の聖書箇所です。しかし、その中でかろうじて1カ所だけ、「喜び」という言葉を見つけることができました。「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(10節)。
単なる「喜び」ではありません。「溢れるような喜び」がここに語られているのです。これはどういうことでしょう。
Ⅱ.占星術の学者たちと、溢れる喜び
ここに1つ、決して見落としてはならないポイントがあります。それは喜んだのが「東の方から…来た」占星術の学者たちだったということです。(1節)
「東の方」と書かれています。具体的な国名は出て来ません。この時代、ユダヤの人々が「東」という言葉を聞くとどんなことをイメージしたのでしょう。歴史を知るユダヤ人であれば即座にアッシリア、バビロン、ペルシャと、自分たちイスラエルを脅かしてきた国々を思い浮かべたに違いありません。
預言者ヨナに、「アッシリアの首都ニネベに行って神の言葉を伝えるように」と、主の言葉が与えられた時、ヨナは「神さま、それだけは勘弁してください」と、主なる神に仕える預言者であったにもかかわらずに、東方のアッシリアとは正反対の、西の方角へと逃亡を企てた出来事がありました。それほどまでに、東の国アッシリアは、イスラエルにとって憎むべき敵国だったのです。
歴史を紐解けば、北イスラエル王国はアッシリアによって滅ぼされ、男たちはアッシリアが征服した別の地域に連行されます。すると、他の被征服地からも他民族の男たちが連れて来られます。そのようにして民族混交政策をとったのがアッシリアでした。
その後、同じ東方の国バビロンが、南ユダ王国を滅ぼします。この時、捕囚とされたのは男性だけではありません。男性も女性も、イスラエルの多くの民が東の国バビロンに連行されました。このように「東の方」とは、自分たちを捕え滅茶苦茶にした国々なのです。まことの神である主を信じない異教徒の国々、それがこの時、彼ら学者たちがやってきた東の国でした。
さらに悪いイメージは続きます。ユダヤ人にとって「東」とは、アラビアの砂漠がどこまでも続く所で、暑さと乾燥のために植物が全く育たない不毛の地です。「東から風」が吹くと草木は一斉に枯れ、泉は干上がり、イナゴの大群を運んで来るのが「東風」と言われ、人々は本当に恐れていました。それが「東」です。「東の方からきた占星術の学者たち」とは、まさに、その「東」からやって来たのだとマタイは伝えるのです。
ところで、1節の「占星術の学者たち」という言葉をギリシャ語原文で見ますと、「マゴスたち」が来たと書かれていました。これは英語の「マジック(魔法)」の語源となった言葉だと言われます。言ってみれば魔術師、「星占いの先生」といったところでしょう。
ただ、この占い自体は、旧約聖書の時代から神によって厳しく禁じられた行為でした。ここでマタイが伝えていること、それは父なる神が、御子の礼拝者として最初に招いたのが、ユダヤ人が忌み嫌っていた東方から、しかも旧約の時代から禁じられていた占いの先生たちだった、ということです。
この時、占いの先生たちだけが、御子イエスに会うことが出来たのです。当時のユダヤ人たちが、救われるはずがないと考えていた異邦人、救いの枠外に居た異邦人、しかも星占いを仕事とする人々が誰よりも先に、救い主イエスの礼拝者として招かれたのです。そして彼らこそ、主イエスの誕生を知って、喜びにあふれたのだ、と伝えているのです。
Ⅲ.御子の礼拝に最初に招かれた人々
もう少し、この時の学者たちのことを考えてみましょう。彼らはユダヤまでやって来ましたが、救い主がお生まれになった場所が分からず、方々探しまわりました。でも見つかりません。
ユダヤ人の王としてお生まれになったのだから、当然、宮廷に居るだろうと考え、ヘロデのところを訪問したのです。
実は、その時はじめてヘロデは事実を知らされました。そして急に不安になったのです。すぐさま祭司長たち、律法学者たちを招集し、「メシアはどこに生まれることになっているのか」と問いただしたところ、彼らは「ユダヤのベツレヘムです」と即座に答えました。それも預言者ミカの言葉を引用しながら。しかし、自由自在に聖書を引用し、すぐに答えを出せた彼らですが、そこで動こうとしないのです。あの羊飼いたちが、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(ルカ2:15)と言ったように、急いで出て行こうとしないのです。本当に不思議としか言いようがありません。
私は次のような言葉を思い出しました。「というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです」(へブライ4:2)。
聞いた言葉が役に立たなかった。その言葉が、それを聞いた人々と信仰によって結びつかなかったからだというのです。あくまでも他人事、自分のこととして受けとめていません。受けとめられないでいたのです。
彼ら祭司長、律法学者たちとはユダヤの信仰、伝統を守る人たちです。「これは一大事、すぐに行きましょう」と行動に出てもよかったはずです。でも誰一人動かない。立ち上がろうともしていません。
そして、皮肉にも行動に出たのがヘロデなのです。「わたしも行って拝もう」と言っていますが、その逆で、実は殺そうと考えていました。地位を脅かす原因となるイエスを、赤ん坊の内に殺してしまおうと考えていたのです。
ヘロデが一番熱心に聖書を調べさせ、メシア誕生に関心を示した。ところが、そうした熱心なヘロデとは全く対照的に、ユダヤの指導者たちは全く無関心だったのです。福音書を書いたマタイは、クリスマスの出来事をこのように見ているのです。
Ⅳ.だれのためのクリスマス?
先日、銀座の教文館に行ってきました。銀座はクリスマス一色でした。でも、そうしたクリスマスを見ながら、心のどこかで私は、〈彼らははしゃいでいるけど、本当のクリスマスを知らない。本当のクリスマスは教会にあるのに・・・〉と、ふと、そんなことを思いました。
高校生の時はじめて教会のクリスマス会に出たあと、〈これが本当のクリスマスだ。本当の意味でお祝いできるのは信仰を持っている、この人たちだよなぁ〉と考えたことを思い出します。
でも、果たしてそうなのだろうかと思います。ここに登場する祭司長たち、律法学者たちのように、聖書の知識があっても、それによって、信仰者たちは動きだしたり立ち上がったりしているだろうか。また逆に、聖書を読みながら、聖書が教えることと正反対のことを平気で考えるヘロデのようになっていないだろうか。
占星術の学者たちが味わった大きな喜び、マタイをして、「大きな喜びを、この上もなく喜んだ」、「非常な喜びにあふれた」と表現させるほどの喜びが、クリスマスの意味を知っていると告白してはばからない、私たちの心の中に、また教会の中に、果たしてあるのだろうかと思わされるのです。
喜びは自分で作れるものではなく、神が与えてくださるものなのだと、ある人が語っていましたが、占星術の学者たちは、神から喜びをいただいた、受け取ったのです。救い主と本当に出会ったからです。
救い主と出会った彼らはその後、どうしたでしょう。黄金、乳香、没薬を主に捧げました。これらは占星術をする時の商売道具だと言われています。それを入れてあった「宝の箱」とはリュックのような袋を意味する言葉だそうです。リュックのような袋に商売道具の黄金、乳香、没薬を入れて持ち歩き、旅をし、仕事をしていたのです。その生活の手立てを、リュックごとみんな幼子イエスの前に差し出してしまったのです。言い換えれば、〈もう役に立たない、必要ない〉と、彼らは思ったのです。
ある人の言葉を使えば、自分たちの間違いを認めた。星占いから足を洗ったのです。
ちょうど歴史がキリストの誕生を境に紀元前と紀元後に分かれるように、救い主イエスとの出会いが、彼らのその後の人生を方向づけて行ったのです。その証拠に、神さまは彼らのために、「別の道」(12節)を備えてくださいました。
アドベントは、講壇に、悔い改めを表す紫の布を掛け、もう一度、私たち自身の信仰生活を吟味する季節です。私たちは来週、いよいよクリスマス礼拝を迎えます。今朝もう一度、神さまからいただいている恵み、いただいている救いを覚えて感謝したいと思います。もう一度、私たちの心の飼い葉桶に、救い主イエス・キリストをしっかりとお迎えしたいと願います。
お祈りします。