殺してはならない ― 第六戒

松本雅弘牧師 説教要約
出エジプト記20章13節
マタイによる福音書5章21―26節
2021年11月7日

Ⅰ.はじめに

主なる神さまは、十戒をお与えになる以前に、一方的な憐れみによってエジプトの奴隷状態から救い出し、彼らイスラエルをご自分の民となさった。恵みの契約の当事者、宝の民としてくださった。これが救いです。この救い、特に時系列を大事にしながら、私たちにとっての救いの目的について明確に説いたのが、次のエフェソ2章8節からのパウロの言葉です。
「あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのでなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためです。私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです。」(エフェソ2:8-10)
先週の日曜日、10月31日は宗教改革記念日でした。その中心にある、私たちが救われるのはただ恵みのみ、信仰のみという、その肝を明確に表している聖句でしょう。私たちは、神の御前に功績を積んだからとか、十の戒めを3年間守り続けることができたので報いとしてクリスチャンにしてもらえたではありません。十字架の上で世の罪を取り除く神の小羊であるキリストが流してくださった血潮が、私たちの心の柱と鴨居に塗られたので、神の憐みにより裁きが過ぎ越し、罪赦され、神の子とされた。一方的な恵みなのです。そしてその恵みによって神の子とされた者たちの、救いに与る者にふさわしい生活、歩みはどのようなものなのか。それを表わしているのが「律法」と呼ばれる十戒なのです。
さて、今日は、神の民としてふさわしい生き方の一つ、十戒の六番目の戒め、「殺してはならない」と言う戒めですが、主イエスは「山上の説教」で、この第六戒を説き明かしておられます。今日は、その説き明かしに傾聴しながら、第六戒の本意を共に学んでみたいと思います。

Ⅱ.「殺すな」という戒め

ではもう一度、新約聖書のマタイ福音書5章21節からの箇所を見ていただきたいと思いますが、主イエスは、「殺人」という目に見える行為の背後には「怒り」といった私たちの感情が隠されていて、その「怒り」そのものに焦点を当てる必要性を説いておられることが分かります。
例えば、確かに世界中のほぼすべての法律や宗教は、いくつかの例外を除いては、「人を殺してはならない」ということを明言します。ただ、その理由をはっきりしていない。はっきりと説明しているものは意外に少ないのではないでしょうか。代表的な説明と言えば、「社会秩序が維持できない。自分の命を守ってくれるものがない。だからお互いに殺し合うのはやめよう」というものです。ですから当然、決定的な理由がありませんから、歴史を見ますと、一度戦争が始まれば「なぜ殺してはいけないか」が曖昧になり、いつの間にか「敵は殺してもよい」となり、そして当たり前ですが「多く殺した方が勝利者、英雄」ということにさえなるわけです。
これに対して聖書は「殺してはならない」とはっきりと命じています。では、何故、人を殺してはならないのか。結論から言えば、「人は神のかたちに似せてつくられたから」というのがその理由です。例えば、創世記9章6節に、「人の血を流す者は/人によってその血を流される。神は人を神のかたちに造られたからである」と述べられている通りです。聖書によれば、人を殺すことは神の所有物に手を出すことであり、生きるようにと、私たちをこのところに置いておられる、神さまご自身のご意志に反することになる。だから、殺してはならないのだ、というのが聖書の教えなのです。

Ⅲ.仲直りの勧め

ところで、主イエスはここでもう一歩踏み込んで語っている。それは、実際に人を殺害しなくても、心の中で「腹を立てる」ことは殺人と同じだ、とおっしゃるのです。そんなことを聞きますと、「それは無理でしょう。第一、正当な怒りもあるのではないでしょうか」と言いたくなるのではないでしょうか。
ところで、今日の聖書箇所を伝える写本の中には、「きょうだいに腹を立ててはならない」という箇所に、「理由なくして」という言葉が入っている写本があるそうなのです。たぶん、その写本を書いていた写字生は、「いくら何でも『腹を立てるな』とは無理でしょう」と考えたからだと思うのです。考えてみれば、腹を立てる時には必ず理由があるはずです。ですから、仮に「理由なくして、腹を立てる者は」と主イエスがおっしゃったのであれば、腹を立てている当人には何らかの理由があるわけですから、「自分には理由がある。だから十戒は私には当てはまらない」ということになってしまう。主イエスはそれをよくご存知だったのではないでしょうか。
ちょっとしたことですぐに気分を害し、ちょっとしたことで腹を立ててしまう弱い私たちのことを主イエスはよく知っておられた。だから自分が反感を捨てるだけではなくて、もっと積極的に相手の人と仲直りするようにと勧めるのです。23節。「きょうだいが自分に恨みを抱いていることをそこで思い出したなら、」少し飛んで「まず行って、きょうだいと仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」。こちらの側で気にならないことであったとしても、相手側が私を訴えようとしていたら、25節、「途中で早く和解しなさい」と語られています。
「この人、反感を持っているな」と思うと、傷つきたくないですから、その人を避けるようになることがあります。あるいは、「勝手に怒らせておけ」と突き放したくなることもあります。でもそうした行動は、冒頭でお話した、神の子に与えられている、新しい行動基準、神の国の価値観にそぐわない。「愛の反対は、憎しみではなく、無関心である」とマザー・テレサは語ったと言われますが、相手を避けること、無視することも、憎むことと五十歩百歩なのかもしれません。

Ⅳ.十字架を見上げて

では、私たちはどうしたらよいのでしょうか。
24節をご覧ください。ここに「きょうだい」という言葉が出て来ます。「兄弟姉妹」です。〈ああ、キリストはこの人のためにも十字架にかかられた〉ということです。この人をも神は愛しておられる。そのことを思い巡らす。キリストの十字架を知っている私たちは、なおさら、腹立たしいこの人も実は御子という尊い代価を支払っても惜しくない者として生かされていることを思い巡らす。そして、私一人で十字架の前に立つだけではなくて、共に祭壇の前で礼拝を捧げることができるように和解をするというのです。
主イエスの教えを知らされていた使徒パウロは、フィリピの教会に、教会が抱え持つ課題を率直に指摘しました。残念ながらフィリピ教会には、お互いのことを喜べない、祝福し合えない問題がありました。しかも率先してやっていたのが、フィリピ書に具体的に名前の挙がっている、エボディア、シンティケという二人の女性リーダーでした。
教会員は皆、気づいていました。しかし、見てみぬ振りをしていたのです。そこが解決されなければフィリピ教会の礼拝も奉仕の業も恵まれません。ですからパウロはそこにメスを入れていきました。「私はエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主にあって同じ思いを抱きなさい。なお、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。二人は、命の書に名が記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のために私と共に戦ってくれたのです。主にあっていつも喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい。主は近いのです。何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。」(フィリピ4:2-7)とあります。
私たちの、現在の高座教会を主イエスがご覧になったらどうでしょうか?主の瞳には、私たちの姿はどう映っているでしょう?この講壇に使徒パウロが立ったとしたら、私の中に何を見、私に対して何を語ったことでしょうか。主イエスはこの私の罪を赦すために十字架に掛かってくだった。そして同様に、私が腹を立てるその人のためにもキリストは十字架に掛かられたのです。
私たちが十字架の前で心をキリストに向ける時に、今までとは違う物の見方、人の見方をいただくことができ、そこに初めて仲直りの思いが与えられる。「殺してはならない。」いやもっと積極的に相手を重んじ愛するために、私たちは生かされている。何故、それが可能なのでしょう。それは、「神がまず私たちを愛してくださったからです」(Ⅰヨハネ4:19)。
お祈りいたします。

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