気前のよい神
松本雅弘牧師
イザヤ書56章1~8節 マタイによる福音書20章1~16節
2019年9月1日
Ⅰ.「ぶどう園のたとえ」を読んでの感想
有名なたとえ話です。ただ多くの反応は、内容は分かり易いが、どうしても腑に落ちない、というものです。
ある人はこんな感想を持ちます。このたとえ話のようなことは日常生活では決して起こらないだろう。何故なら主人は、少し常識外れの感がある。いやあまりにも無計画すぎる。
こんな感想もあります。朝から仕事をした労働者の文句に対して、主人は「友よ、あなたに不当なことはしていない」と答えてはいるが、果たしてそうだろうか。文句を言った人の言い分は、「働いた分に応じて報いがあるべきだ」ということであり、「一日中働いた人間が、半日しか働かなかった人、いやたった1、2時間しか働かなかった人よりも多く報酬を得るのは当然でしょう」、そう訴えている。だからどうしても理解できないと思ってしまうのです。
ここで主イエスがお語りになったたとえ話はこの世の成果主義という常識をひっくり返すような結末です。常識からしても、朝から働いてきた人が不平を言いたくなるのがよく分かります。でも主イエスは、そうした反応も見越した上で語っておられるのではないだろうかと思うのです。
Ⅱ.ねたむ=目が悪い
あらためて1節を見と、「天の国は次のようにたとえられる。」と始まり、伝えようとしていること、それは、「天の国/神の国」なのです。
主イエスの神がご支配される、神の国の価値観が、いかに世間の価値観、この世の常識と異なるものなのかということを語ろうとしていることに、私たちは心に留めたいと思うのです。
このたとえ話という「鏡」の前に立ち、その「鏡」に映る自らの姿を見る。すると最初はぼんやりですが、次第にくっきりと見えてくる姿があります。
それは15節にある、「ねたむ」心の姿、その在りようなのではないでしょうか。一日中働いた人が妬んでいる。しかも妬む心を浮き彫りにするように、主人は最後に来た人から支払いを始めているのです。その結果、最後に支払ってもらった、一日中一生懸命はたらいた人の心に妬みが起こった。嫌な思いが起こり、嫌な気分が生じたのです。こういうことって、現実に起こり得ることでしょう。
私たちも経験することですが「妬み」というのは本当に厄介です。何かを見たり聞いたり、ちょっとしたことで、妬みの思いが湧くことがあります。教会の人間関係においてさえも、色々な場面で妬む心が動いてきます。妬む心を探る時、私の内で起こっているのは他者との比較です。〈ああ、あの人はうまくやっている。私の方が評価されていいはずなのに…。〉
一方で、人が低く扱われているのを見て私の心は穏やかになる。本当に、貧しく卑しい心の現実があるのです。
この時、朝から働いていた労働者の心の中に動いたことは、そうした感情だったのではないかと思うのです。
Ⅲ.気前のよい神
今日の説教題は15節から、「気前のよい神」と付けました。
この言葉は「アガソス」というギリシャ語で「善い」という意味です。そして「完全」という意味もあります。ここで神さまがぶどう園の主人にたとえられていますから、その神さまは完全なるお方として、全き善いお方として完全な振る舞いをしておられる。あなたは、その全き、完全さが見えないのか、と主はお語りになっているのではないでしょうか。
もしそうだとすれば15節の前半の主人の言葉はとても大切なことを私たちに伝えていることでしょう。「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。」(15節)「わたしが自由に、自らの物を、自らの思い通りに用い、振る舞うことが、なぜ悪いのか。」と、主人は言っているのです。
ある説教者が語っていました。神の気前よさは、その人にとって最も大切なものを、その人の思いに勝って与える気前よさだ、と。
何にも束縛されず全く自由に、私たち人間の知恵が心得る「平等の原則」にも束縛されず、全く自由に「この人には何が必要か」という事だけを考え、そのことだけを願い、施す神の善意、それが神の気前よさだと。
ですからどれほど働いたかという事は、問題にならないのです。丸一日働いた労働者が1デナリオンを得るのは当然のことです。でも広場には職にありつけない別の労働者がいたのです。だから主人は彼らのところに行き、そして
彼らを雇い入れ、ぶどう園に送ったのです。
賢い主人のすることですから、朝一番、すでに収穫に十分な労働者を雇い入れることだってできたかもしれない。
でも主人の心にどうしても引っかる事がありました。それは広場に立ち尽くしていた者たちです。ですから何度も広場に見に行くのです。そして自由に、そこから何度でも、労働者をぶどう園へと連れて行く。
そうする理由は多くの労働力を確保し、収穫量を増やすためではありません。利益を上げるためでもないのです。そのような事より、ずっと引っかかっていた事、それは職にありつけず、収入を得る当てもなく突っ立っている、そのため家族を養うことが出来ない人々、そうした彼らが広場に居たという事、その事が主人の心を捕えて離さなかったのです。
一般常識からすれば、全く無計画な経営ぶりでしょう。でも主人の気前良さ、完全さに思いを馳せれば馳せる程、これは決して無計画でもなんでもない、むしろ、そこにこそ主人の計画があった。神さまの御心があり、それが神さまの物事の進め方だったのではないでしょうか。
だからこそ主イエスは、「天の国はこのようにたとえられる」のだ、と念を押し、この分かりにくいたとえを語り出しておられるのです。
考えてみたいのですが、朝一番、広場にみんなが集まった時、一人ひとりの置かれている状況は同じでした。雇ってくれることを誰もが願い集まっていたのです。逆の言い方をすれば雇われなければ家に何も持って帰れません。そうした状況に誰もが置かれていたのです。
そうした中、幸いなことに、あるいは、どういう訳かたまたま、自分は朝一番に雇ってもらえた。ですから、ぶどう園に着いてからは一生懸命働いたのです。自分が働き、そして働いて得た報酬で家族も食べ物にありつける。もうそれだけでも大満足のはずでした。ところが他人との比較が始まるのです。
仮に愛の心のかけらでもあれば、自分は職にありつけたが、あの時、一緒に広場に居た連中は仕事を貰えただろうか、と考えたかもしれない。
一方、そうではなく〈もしかしたら自分も彼らと同じような目に遭っていたかもしれなかったのに、本当に幸いにも、この私は、仕事をもらえた…。〉と考える。
自分が満たされると同じ立場にいた仲間のことをすっかり忘れてしまう。いや覚えて居るかもしれませんが、その覚え方は、彼らと比較し、いかに自分は恵まれているかが問題となる。〈何て恵まれているんだ〉と自己満足するだけになってしまうのです。
この時、主人は不平を言った者に、「お前たちは、不公平だと言うかもしれない。でも本当に公平さを問題にするならば、早朝、広場で会った男が、日没の1時間前にやって来て1時間だけ働けた。その彼が、お前たちよりも先に同じ賃金を得たのを喜んでいる姿を見て、『ああ、ほんとうに良かった』と、何で一緒に喜べないのか。共に喜び合うことができないのか」そう訴えようとされているのではないでしょうか。
そして仮に、そうした喜びの目で仲間の姿を見ることが出来たならば、「あなたの目は澄んでいる。善い目だ、善い目だ」と、主人に言っていただけたに違いない。
そうした心の在り方こそが、実は私たちが魂の奥底から憧れている生き方、私たちが求めるべき本来の姿なのではないか、と訴えているように思うのです。
Ⅳ.神さまの招きに応える
洗礼入会準備会で、この箇所を読む時に、参加者の方たちに問いかける質問があります。皆さんは、ご自分をどの時間の労働者と重ね合わせて考えることが出来ますか、考えますか、という問いです。その時、ぶどう園は教会に、あるいは神さまを信じる人生に置き換えて考えてもいいかもしれません。
ここに出てくるそれぞれの「時間」が「人生の時期」を表わすとすれば、私たちは、どこに自分を見いだすでしょうか。主イエスを信じて生きることの報いというのは死んでから与えられるというものではなく、今、この瞬間にすでに与えられている、と主イエスは語るのです。
永遠の命というものは、やがて与えられるというよりは、ぶどうの木である主イエスに繋がっていること、そのものだからです。ですから、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(16節)ことがあっても、それでよいと喜んで思えるのではないでしょうか。
こうした人生、こうした「ぶどう園」に主イエスは招いておられるのです。
まだ招きに応えておられない方があるならば、ぜひ、今日、その招きに応えてみたらいかがでしょうか。お祈りします。