神が結び合わせてくださったもの
和田一郎副牧師
創世記2章15-25節、エフェソの信徒への手紙5章21-33節
2021年10月24日
Ⅰ. 究極の神の目的
私たちは、いつも神様の御心を求めます。その神様の御心は聖書に啓示されています。しかし、「今日何をしようか」といった具体的なことが聖書に書いてあるわけではありません。聖書全体から判断することが大切です。しかし、神様の究極的な御心、つまり最終的に私たちをどのように導びこうと思われているのか、その事は聖書に書かれています。神様の最終的な目的が分かっていれば、細かいことも分かってきます。エフェソの手紙1章に記されています。
「神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福し、天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。御心の良しとされるままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、前もってお定めになったのです。それは、神がその愛する御子によって与えてくださった恵みの栄光を、私たちがほめたたえるためです。」(エフェソの信徒への手紙1章 3-6節)
最後の箇所で「私たちが・・・(キリスト再臨の時)御前で聖なる、傷のない者となるため・・・ご自分の子にしよう」とあるのが、神様が私たちにされようとする究極の目的です。神様はこの目的を「天地創造の前に」(4節)、定めておられたと言うのです。つまり、一人でも多くの人が、地上の人生を通してイエス・キリストに似た者へと、成長していくことを願っていて、やがて、神の国の完成を成そうとされているというのです。これが旧約・新約聖書全体を通して貫かれている、神様の御心の前提です。
さて、今日はこの前提を心に留めながら、エフェソの信徒への手紙5章21節以下から「結婚」について考えていきたいと思います。
Ⅱ. キリスト教の結婚観
エフェソの信徒への手紙5章21節でパウロは夫婦に対して「キリストに対する畏れをもって、互いに従いなさい」と言ってます。この短い文章に「結婚」の大事な意味が要約されていると思うのです。キリストに対する畏れが、まず示されています。イエス・キリストの十字架の御業、その偉大さ、愛の大きさを畏れ敬うことが、夫婦にとってまず第一です。このキリストへの畏れをもって、夫も妻も「互いに従いなさい」と命じているのです。
その後の箇所でも、妻に対してまず「主に従う」(22節)こと、夫に対しても「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように・・」(25節)と、ここでもまず、キリストがされたようにしなさい、とあるのです。夫婦関係のことを言っているのですが、パウロはまず「キリストに対する畏れ」、「キリストのされたように」とキリストをまず、夫婦関係の中心に置いています。
Ⅲ. 結婚の起源
その理由は、結婚の起源が神様にあるからです。結婚という制度は人間が造ったものではありません。世間の価値観では、「結婚相手のこと」をよくわからずに結婚することは危険だ、だから、まず一緒に生活をしてみて相手を知ってから結婚するかどうかを考える、というのが現代の価値観です。ところがそれでも離婚が増えているのも事実です。相手のことをよく知ることよりも、「結婚のこと」「結婚の意味」をよく分からずに結婚することの方が危険かも知れません。結婚は神様が人間のために定めた制度ですから。
今日の聖書箇所「神である主は、人から取ったあばら骨で女を造り上げ、人のところへ連れて来られた。人は言った。「これこそ、私の骨の骨、肉の肉。これを女と名付けよう。これは男から取られたからである」(創世記2章 22-23節)。この創世記の記述が、最初の結婚の場面です。獣の中にはアダムに相応しい「助け手」がいなかった、そこで女を造り上げ結婚という関係で二人を結ばれました。その中心には神様がいます。神様の前で成されているのですから、夫と妻との契約であるのと同時に神様との契約です。タテの契約とヨコの契約です。信仰生活も神様との関係を現わすタテ軸と、隣人との関係を現わすヨコ軸の両方が大切だと言います。結婚もタテ軸とヨコ軸の関係から成り立っています。
エフェソの手紙に戻りますが、21節が「キリストへの畏れをもって、互いに従いなさい」と命じている。「キリストへの畏れ」がタテ軸で、「互いに従うこと」がヨコ軸になっていることが分かります。
「結婚の起源」が神様に由来するというだけではなくて「結婚の目的」も神様の御心によるものです。
Ⅳ. 結婚の目的
31-32節「こういうわけで、人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。この秘義は偉大です」とあります。口語訳聖書では「奥義」、新共同訳では「神秘」と訳されていました。この「秘義」とは何でしょうか? 32節後半でパウロは「私はキリストと教会とを指して言っているのです」と指摘しています。ですから秘儀とは、結婚すること自体ではなくて、キリストと教会の関係を「秘義」と表現しているのです。つまり、キリストと教会の関係を、夫婦の関係の模範にしなさい、というメッセージなのです。夫婦がお互いのためにすべきことは、イエス様が十字架の自己犠牲をもって、私たちの教会にされたように、夫婦が自己犠牲をもって、お互いに従うことです。
私たち夫婦は結婚した当初から、よく喧嘩をしました。二人とも年齢が40台で人間としての価値観も固まっていました。相手に従うことができなかったのです。しかし、そういった結婚生活で叩かれて、練られてお互いに変わっていったと思うのです。妻は中学生の時に洗礼を受けて、教会から離れずに聖書の教えが身についていました。しかし、私が信仰をもったのは社会人になって、40歳を過ぎていましたから、聖書の教えより、この世の価値観が染みついていたのです。自分の経験からくる価値観で固まっていました。夫婦喧嘩をよくしましたが、聖書の教えに近いのは、妻の方ではないかと気付いたのです。彼女はそれを口で諭したりする人ではなくて、自然と御言葉に生きている人です。もちろん御言葉通りに清く正しく生きている、ということではありません。しかし「イエス様は、妻のような人のことを好きなんだろうな」と思うのです。マルタとマリアの姉妹の話がありますが、あのイエス様の前に座っていたマリアのようなタイプです。私は牧師ですが、今もって発展途上の信仰者だと思います。しかし牧師という働きをさせて頂きながら日々変化しています。その多くは結婚生活の中で成されました。結婚して「自己中心」というものを砕かれなかったら、分からなかった事、見えなかったことが沢山あると思います。そうして、イエス様に似た者になっていく、まだまだですが結婚生活の試練を通して変えられていく、それが、神様の定めた結婚の目的です。
説教の初めに、究極の神様の目的の話をしました。
天地創造の前から、キリストを信じる者を「聖なる傷のない、ご自分の子にしよう」と願っている、地上の人生を通してイエス様に似た者へと成長させて、神の国の完成を成そうというのが、神様の究極の御心です。そこに、「結婚」という制度を置かれたということです。結婚というものを通して、人々を究極の目的である神の国に入るに相応しい者へと成長させようとされているのです。パウロはそれを「秘義」と呼びました。
ここに「結婚」の目的の一つを見ることができます。
Ⅴ. 豊かな夫婦生活のために
もう一度21節の言葉に戻りたいと思うのです。
「キリストに対する畏れをもって、互いに従いなさい」。夫婦が「互いに従う」というのは難しいものです。自分の意見を曲げて、妻に従うというのは簡単にできるものではありません。しかし、ここでも模範はイエス様です。25節「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」とあります。どういうことでしょうか。
神の子なるイエス様は、父なる神様と対等な立場であるにも関わらず、地上に降りて来られました。私たちと同じ人間になって下さいました。それだけではなくて、進んでご自分から十字架にかかり、痛み苦しみを受け、私たちの罪の代価を支払って教会をたててくださったのです。「教会のためにご自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」というのは、これこそ結婚生活を祝福へと導くために、重要なことだとパウロは言っているのです。キリストがされたように、互いに、へりくだること、自己犠牲を払うこと、それが結婚生活を生きるための唯一の鍵です。キリストに似たものになればなるほど、結婚の本領が発揮されていくものです。
ところが、それを邪魔するのが「自己中心」です。自分の意志に反して相手の意見に従う時、敗北感を味わいます。お互いに自己中心でいたならば収拾がつきません。自己中心との闘い、それにはキリストに倣って、キリストの愛を模範にするしかありません。
イエス様は隣人を好きになりなさいと、親切を勧めているのではありません、「愛」を命じているのです。LikeではなくLoveです。愛とはただの感情ではありません。愛には具体的な行いが伴います。まず愛情を感じなければ、愛せないと考えがちですが、それは間違いです。愛の行動が愛情を生み出します。では妻と夫、どちらが先に愛を示すべきでしょうか。どちらが先に優しい言葉をかけて、謝罪をして自分から愛を示せばよいのでしょうか。勿論、これもキリストを模範にすべきです。相手の出方を待っていてはいけません。なぜなら神は私たちに先立って愛を示してくださったからです。「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです」(ヨハネ手紙一4章19節)
相手に従うことは、相手に負けることではありません。キリストに従っているのです。相手に従うことは、イエス様が十字架でされた忍耐を思って、信仰に生きているという証しです。
今日は、「究極の神様の目的」と「結婚の目的」が重なる話をしてきました。しかし、結婚しないと神様の目的に叶わないということではありません。結婚は一つの道です。イエス様もパウロも結婚せずに生きました。神様はさまざまな苦労を通して、人を成長させてくださいます。私たちに先立って愛を示してくださった神様に倣って、愛を現わしていきましょう。
お祈りをいたします。