神のご計画

<第3アドベント>
松本雅弘牧師
イザヤ書30章15-22節
ルカによる福音書1章24-38節
2022年12月11日

Ⅰ. 「神にできないことは何一つない」?

先週、新聞を読んでいましたら、「ロシア本土攻撃か―ウクライナ戦闘激化の恐れ」という見出しの記事が載りました。ロシア国内の二つの空軍基地が、ウクライナ軍のドローン攻撃を受け、三人が死亡、軍用機二機が破損したと発表された。その結果、戦闘激化への懸念が強まっている、という記事の内容でした。ロシア軍によるウクライナ侵攻が開始され、すでに十か月弱が過ぎました。なかなか出口が見えない状況が続きます。そして依然、コロナ感染症も完全には収まらず、現在、私たちは第八波に襲われています。「神にできないことは何一つない」という御言葉と、この現実を私たちはどのように折り合いをつけたらいいのでしょう。
先日、日本中会の会議に挨拶に来られたTCU学長の山口陽一先生は、停滞期に入っていた日本のキリスト教会は今や衰退期に突入した、という衝撃的な発言をされました。そうした教会の現状にある中、今日の「神にできないことは何一つない」という言葉はどのような意味を持つ言葉なのだろうか、と改めて考えさせられました。
私たち信仰者は、神さまは全能のお方であることは分かっています。当たり前のことのように受けとめています。逆に、全能でない神ならば、それは神の名に値しないと考えるでしょう。だからこそ私たちは、神さまが全能であるならば、何でこんなひどいことがこの世界に、社会に、いや私や私の家族、子どもたちの上に起こるのか、と複雑な思いにさせられるのだと思います。
この時、天使ガブリエルはマリアに現れ、「神にできないことは何一つない」(37節)と語るわけですが、そのメッセージを通して神さまは何をなさろうとしていたのだろうか、と思います。今日は、そのあたりからご一緒に考えてみたいと思います。
ところで、37節の「神にできないことは何一つない」という言葉を原文で読みますと、もう少し丁寧に訳すべき言葉であるように思わされました。私なりに訳してみますと、「神にとっては、その語られた全ての言葉は不可能ではない、不可能になるようなことは決してない」という意味です。この時、天使を通して必ず実現する言葉として語られたのは31節の非常に具体的な言葉です。「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」という、この言葉です。そうした「神のご計画」、「神さまのお約束」と呼んでもよいかもしれません。これに対してマリアは、「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)と答えました。この「お言葉どおり」の「お言葉」とは、31節の言葉、「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」という、神のご計画を言い表す言葉です。
打ち明けられたマリアは大変でしたが、それでも「自分は主なる神さまの仕え女です。神さまに従う者です。ですから、あなたがなさいました決断、あなたが立てられたご計画に、私はひとりの仕え女として、それに加わり、そこに生きていきたいと願います」と答えたのです。ある人が、このマリアの言葉こそ、「信仰と献身の崇高な表現である。彼女はそれの意味する犠牲をも甘んじて受け入れようとしている」と解説していましたが、まさにマリアは腹をくくった。神さまから打ち明けられた計画に参加することを受け入れたのです。残された時間、マリアのこの姿勢に学んでみたいと思います。

Ⅱ. マリアが示した信仰者としての模範―主のはしためとして生きる

まず注目したいのは、彼女が自分を「主の仕え女」と呼んだ点です。「仕え女」とは、「僕」という言葉の女性形のギリシャ語です。
改めて教えられたのは、神さまのご計画、神さまの御働きは必ず主の僕、仕え女の参加を必要としているということでしょう。「あなたのご計画通り私をお用い下さい、生かしてください。私たちを通してあなたの御心が実現しますように」という祈りに導かれて初めて、神さまのご計画が実現する道が拓かれていく。誤解を恐れずに言えば、マリアのような仕え女や僕たちの参与なしに、ご計画は実現しないと言えるかもしれません。マリアはそのようにして、私たち信仰者の先駆けとなった女性です。
先週、洗礼式がありました。洗礼の時に、イエスさまを罪から私たちを救い出してくださるお方としてだけではなく、救い出された後、「人生の導き手」、つまり「主人なるお方」として従っていきますか、という問いかけますが、それは、イエスさまに対して自分は「僕、仕え女」であることを告白することであり、もっと言えば、「主よ、お言葉どおり、この身になりますように」、「生活の全ての領域であなたの御心がなりますように」と献身を表明する告白でもあるのです。ここにマリアが示してくれた信仰者としての模範があるように思います。
先週、祭司ザカリアの人生を神が妨害されたことを観ました。十か月の沈黙を経て、ザカリアはその出来事を恵みとして受け留めることができました。。マリアも同様なのです。彼女の人生に邪魔が入った。神さまが邪魔されたのです。そしてマリアは「あなたのなさる通りで結構です」と答えた。「私も自分の将来を思い描いて来ました。でもあなたが私のためにと準備してくださったご計画の方が、私にとって最善のものです。ですから、あなたのなさる通りで結構です」と告白し、自らを神に明け渡したのです。その結果マリアは、自分の思い通りにならない経験を幾つもしていくことになります。「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」と、最善の神さまのご計画が自分の人生を通して実現するようにと祈ったからです。

Ⅲ. 信仰の冒険

そして二つ目のことは、この祈りは、大きな犠牲を伴うものだったということです。
私たちカンバーランド長老教会の「信仰告白」では、リスクを伴う信仰の決断のことを「信仰の冒険」と呼んでいます。
マリアは神に従いつつ信仰の冒険を始めたのです。冒険というのは一から十、全てが分かって踏み出すのではありません。冒険に招かれる神さまだけを信頼して招きに答えることでしょう。マリアはそうしたのです。その結果、全人類のための救いの計画が大きく動き出して行くことになりました。
さて天使はマリアに向かって、「おめでとう。恵まれた方」と呼びかけています。「恵まれた方」とは「既に恵みを受けた方」という意味です。
ある人がこんなことを語っていました。この時すでに恵みを受けているということは、この時すでに神がマリアをお選びになっていた、彼女の決断に先立って、すでに神さまの側での決断があったことということ。何かの賞を受賞する時のように、まずは選ばれることが先。そのあとに受賞が決まったその人に、私たちは「おめでとう」と祝福の挨拶を送るものです。
この「おめでとう」という言葉も、ギリシャ語を直訳すれば、「喜びなさい」という意味です。「おめでとう!あなたに喜びがありますように。」
「おめでとう」、日本語のこの「めでる」という言葉は、「実際に自分の目で見て本当にいとおしい」という意味がある言葉ですが、神さまがマリアを、すでに慈しみをもって、いとおしいと感じながら見ていてくださっている。このようにマリアは、神さまが慈しみをもって選び、めでられた女性だったのです。
ただ一般常識からすれば、御子を宿すことは、この時のマリアにとっては喜びであったとは言い切れなかったと思います。この後ルカ福音書を読み進めていくと、2章でシメオンという不思議な老人が登場し、御子を連れて宮参りにやって来たマリアを待ち構えるように、「苦しみと悲しみの預言」とも呼ばれる不吉な言葉を伝えています。
そうした預言を聞き、マリアは本当に複雑な思いにされたことでしょう。それが頭を離れない中で子育てを始めなければなりませんでした。でも、この福音書を記したルカは、そうしたことをよく承知の上で、いや、そうであったとしても、今日のところで、「マリア、神さまの愛の中に選ばれている者よ、おめでとう。あなたも喜びなさい」と、その天使の「喜びなさい」という言葉を、それだけの思いを込めて、このところに記録しているのだと思います。
神さまの恵みの決断、喜びを知らせる決断が、まず初めにあって、それを受けるように、私たち信仰者が、そうした神さまの恵みに応答して信仰の冒険に足を踏み出していく。たとえどのような決断をする時にも、38節のマリアの表現を使えば、まずは「神の言葉」が先だって在る。その「お言葉」を心の耳を澄ませて聞いた者が、「あなたのお言葉どおり、この身に成りますように」と心からの祈りをもって応答していくのです。

Ⅳ. 神さまの決断に支えられ

神さまが始めてくださった、神さまが手を付けられたお働きは、神さまの定めた時に、必ず実現する。世界の片隅で始まった小さな幼子の物語、これが世の終わりまで揺らぐことなく続いて行きます。そして救いの完成にまで至る。その最初の一頁、おとめマリアの決断をもって、神さまは救いの実行に移られました。
神さまがマリアを見るように、私たちをご覧になっている。すでに慈しみをもって、いとおしいと感じながら見ていてくだる。そして私たちのために御言葉を用意し、私たちも、私たちの家庭や学校、職場、そして地域にあって、神さまの救いのご計画の一端に参加するように召されています。私たちも「私は主の仕え女、私は主の僕です。お言葉どおりこの身になりますように」とマリアのように、神さまの召しに心から応答する者として生かされて行きたいと願います。
お祈りします。

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