神の前での善
和田 一郎 副牧師
テサロニケの信徒への手紙二1章11-12節
2020年10月25日
Ⅰ.善い行い
今日与えられている聖書箇所は、パウロがテサロニケの教会の人たちのために、祈っている箇所です。11節に「善を求める」とあります。テサロニケの人々が、今現在、善を行っている、またこれからも善を行おうとしている、その願いが成就しますように、というパウロの祈りになっています。わたしたちの生活の中でも、善い行いをすることは広く奨励されています。昔から日本の中でも大切にされてきたことです。ですからクリスチャンでなくても善い行いをしているという人は沢山いるでしょう。では仏教や学校で教えていることと同じですかと聞かれれば、それは、行っていることは同じに見えるかも知れませんが、クリスチャンは、すでに神様から頂いている恵みに対して応答しているのです。その応答として神様に喜ばれることをしています。と答えることになります。
今日の説教題は「神の前での善」としました。テサロニケの手紙は、終末の時について多く書かれています。生きている者も死んだ者も、すべての人がイエス・キリスト前で審判を受ける。自分の生き方を裁かれる、その時、神様に喜ばれ、「善」とされる事とは、いったいどんな生き方なのでしょうか。イエス様の求める善について考えていきたいと思います。
Ⅱ.旧約聖書 「それは極めて良かった」
旧約聖書、創世記1章には、天地創造の出来事の中で、ある言葉が繰り返し使われています。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった(創世記1章31節)。「善」という文字はありませんが、「神はこれを見て、良しとされた」と繰り返されていて、7日目には「それは極めて良かった」という言葉で終わります。原語では「良しとされた」という言葉が「善」と同じ言葉で書かれています。天地創造で造られた海や山などの自然も人間も「良し」とされた。しかし、大切なポイントは、それら、そのものが本来的に良いとか善なのではなく、善である神が作られたから「善」とされたのです。神様は、「愛」そのものであり、「聖なるもの」そのものであり、「善」そのものの神です。善はなによりもまず神御自身であり、神のなされる業を意味しています。
わたしたちカンバーランド長老教会の信仰告白にも次のような言葉があります。
「人間とすべての被造物に対する神の意思は、全く賢く善なるものである」(信仰告白1.08)。今を生きる私たちが、命を与えられた時「それは極めて良かった」と言って造られた、神の善が表わされています。
Ⅲ.新約聖書 金持ちの青年
「神様にとっての善とはいったい何だろう」と同じ疑問をもった人が新約聖書においてもいました。あの「金持ちの青年」と呼ばれる人です。
「さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである」(マタイ福音書19章16-17節)。
ここで、青年は「どんな善い行いをすれば?」と聞いたのに対して、イエス様は「善いお方は神様だけです」と答えたのです。答えになっていないようですが、それが核心です。行いではなくて在り方だとイエス様はおっしゃった。それがこの話のポイントです。
この青年は言うなれば、世間一般の善い行いをする人と同じ考えで良いことをしてきたと言っていいと思います。少し違うのは、彼はユダヤ人でしたから、十戒という律法を守っていて、父母を敬いなさい、嘘をついてはならない、隣人を自分のように愛しなさいなどの律法に従って、善い行いをしていました。青年は自分のことばかり見ていたのです。自分が善いことに積み重ねてきたこと、そしてもっと積み重ねていくことです。悪いことではありません、とても良い考えです。しかし、それは不完全です。人はどんなに賢くて経験を積んでいても不完全であることに変わりはありません。不完全な自分ばかりを見つめているこの青年の目を、イエス様は、全き善である神様の御心に向けさせようとしたのです。自分がどういう善い行いをすればいいのか?ではなくて、ただ一人の善い方である神様を見つめ、その御心を求めていかなければならない。それが「なぜわたしを善いと言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」といわれた言葉の意味です。
さらにこの後、イエス様は、あなたがもっている財産を全て放棄しなさい、と言うのです。そうすれば「天に富を積むことになる」と言われました。つまり、本当の善というものは、神様の御心を求めるところから与えられるからです。
しかし、そうは言われても、神の御心を求めるということは本当に難しいことです。
Ⅳ.子どものように
その点でこの話は、この金持ちの青年の話の前の所で、イエス様が言った言葉と繋がりがあります。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マタイによる福音書19章13-15節)。子どもたちは、神の国に入るために、十戒に定められているような、「嘘をついてはならない」とか、「隣人を自分のように愛しなさい」といったことができません。隣人を愛するというよりは「わがまま」です。人の世話をするより、世話をやかせる存在です。そのわりに、走り回って遊んでいる時、時々振り向いて親の存在を探します。親の顔を見ると安心して遊びだす。親がいないと分かると泣き出す。それが子どもです。イエス様は私たちに「子どものようになって神の国を受け入れなさい」と言っておられるのです。それが、善を行なおうとするなら、子どものように善いお方の御心を求める、ということに繋がっていきます。
「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい・・・・・これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」(ルカによる福音書10章20―21節)
この御言葉どおり、わたしたちの存在が、天国に書き記される、それは知恵ある者や賢い人には隠されて、幼子のような人に示される。幼子のように純粋に神を求めることが神の御心だと言うのです。
Ⅴ.「知りませんでした」
先日、テレビドラマを見ていると戦争のシーンが映し出されました。主人公は歌謡曲の作曲家。彼は日本が戦争に入ると、作る曲も戦争に影響されるようになります。ある友人が「戦いに行く人の心に近づきたいと願いながら詞を書いた」と詩を渡されて、「お国のために頑張っている人たちを励ましたい」という思いが湧いてきました。音楽を通じて、戦う人の力になりたい、それが自分の使命だと思い込みます。そして「あなたの歌に励まされました、ありがとう」と感謝されて、次々と、戦地に赴く人を励ます曲を作曲していきます。そんな主人公は、自分が作った歌に影響を受けて戦地へ赴いた人たちに近づきたいと思い自分も戦地に行きたいと決めます。兵士を励ます慰問という形で向かった先はビルマの激戦地でした。その前線で、自分に音楽を教えてくれた学校の恩師に出会うのです。そして、楽器を使える兵士を集めて小さな音楽会をやることになりました。敬愛する先生や、兵士たちとの楽しいひと時、ところが、そこに敵軍の襲撃があり、一緒に練習をしていた兵士、そして、先生が銃弾に倒れる姿を目の当たりにします。静まり返った戦場には、若者たちの死骸がありました。生き残った主人公は、泣きながら「知らなかった」「僕は何も知りませんでした、ごめんなさい」と泣き叫んでいました。主人公が目の当たりにしたのは、生きるか死ぬか、それ以外に何の意味もない戦争の現実でした。人を励ますためにしたことが果たして良かったのか。あれは果たして善だったのか、知る術がありません。
今の世の中でも、良かれと思ったことが、人を傷つけているかも知れない。不完全な人間が言えることは「知らなかった」という言葉ぐらいではないでしょうか。
「正しい者はいない。一人もいない・・・善を行う者はいない。ただの一人もいない」(ローマ書3章11-12節)。そうであるならば、善を行う意味がどこにあるのでしょうか。
今日の聖書箇所、11節には「神が・・その御力によって・・・善を求める、あらゆる願い・・・を成就させてくださいますに」とパウロは祈っています。神が成就させてくださると言っているのです。不完全な人間は、その善い行いにおいても不完全です。成就してくださるのは、全き善である神でしかない。その神に委ねる。子どものように、しがみついて藁にもすがる思いで御言葉に従っていく先で、わたしたちの善は成就します。
イエス様は金持ちの青年に、行いではなくて神に目を向けさせました。人としての在り方を求めました。子どものように、神にしがみつく者、御言葉にすがりつく者でありたいのです。善い方はお一人である、その方の前に立った時、わたしたちの歩みを「それは極めて良かった」と、成就されることを願って、パウロの祈りに心を合わせて求めていきましょう。
お祈りをします。