神の御前に自分を低くする

和田一郎副牧師
ペトロの手紙一5章6節
2021年12月26日

Ⅰ.2021年というい年

今日は2021年最後の礼拝の日となりました。毎年この日は、その年の主題聖句から一年を振り返っています。今年の主題は「神の御前に自分を低くする」でした。今この時、コロナ禍にあって神様はどのようなお方なのか、神様の御前に立って思い巡らす一年を過ごしてきました。昨年に続くコロナウイルスの感染によって、私たちの生活は制限された一年でした。
その中でも、明るい話題はやはりスポーツが多かったように思います。今年の流行語は大谷翔平選手の「リアル二刀流」でした。これまでになかったユニークなプレースタイルで日本人がアメリカでイノベーションを起こしたという誇りを感じました。東京オリンピックでは、新しい競技が話題になりました。サーフィンやスケートボード、クライミングといった新しい競技は、今までのスポーツ選手とは違う、独特なカルチャーがあります。上下関係がない、対戦相手はライバルであり仲間です。「明るい」「楽しい」、でも肉体を鍛錬して技術を磨いているアスリートでした。テニスの大阪なおみ選手も、今年話題になりました。試合後の記者会見を拒否して、罰金を科せられたのですが、「アスリートの心の健康状態が無視されている」とコメントしたのです。プロ選手としてやるべき責任だとする意見と、ストレスの多い選手を最大限尊重するべきだと賛同するファンも多くいます。世界で素晴らしい成績を残した彼らを通して、これまでと違う価値観、新しいカルチャーを感じられた年でもありました。
日本では、東京オリンピック・パラリンピックが今年一番の話題になるはずだったでしょう。延期された日程で、これをやるのかやらないのか?やるとしたら、どのように行うのか?実施の是非や、運営の問題も取りざたされた結果、一番感染の拡大した時期に、ほとんどの競技が無観客で行われるという、未だかつてない異例づくめの東京オリンピックでした。結局今年も昨年に引き続き、コロナウイルスの感染に、さまざまな制限を余儀なくされた一年でした。コロナ禍は格差社会に拍車をかけました。自ら命を絶った女性や児童生徒の自死者も増えていることには心を痛めます。
高座教会でも、今年は二度にわたって、教会施設を使うことができない休止期間があり、オンラインだけで礼拝をするということで、わたしたちの信仰生活を考えさせられる年であったかと思います。教会に行かなくても信仰生活は守れるのか?制限のある中でも神様との関係は保たれているだろうか?問われる一年であったかと思います。

Ⅱ.抑圧下にあったユダヤ社会

そういった制限の中で、狭苦しい思いをしていたのは、イエス様がいたユダヤ社会も同じでした。当時のユダヤ人はローマ帝国に支配されているという大きな制限の中で暮らしていました。ローマに都合の良い統治者の下でユダヤ人社会は抑圧されていました。地域格差もありました。ガリラヤ地方の人達は、同じユダヤ人であるのに「異邦人のガリラヤ」と呼ばれて蔑まれていました。女性や子どもの存在も同じです。男性だけがユダヤ社会の正規住民だとされていました。
そして、外国人に対する差別意識です。自分たちユダヤ人だけが神によって選ばれた民族だという強い「選民意識」をもっていたからです。自分たちもローマ帝国に支配され差別されているにも関わらず、女性や子ども、貧しい地方に住んでいる人達や外国人に対して差別意識をもっていたのです。
そこに来られたのがイエス・キリストです。この方が、どのように来られて、どのように地上の生涯を過ごされたのか、そのキリストの生涯そのものが、わたしたちへのメッセージです。

Ⅲ.神の形でありながら -イエス・キリストの生涯

フィリピの信徒への手紙2章には、イエス様の生涯が簡略に書かれています。
「キリストは 神の形でありながら 神と等しくあることに固執しようとは思わず かえって自分を無にして僕の形をとり 人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピの信徒への手紙2章6‐9節)
キリストの生涯とは、生まれた時から下へ下へと降っていく「へりくだり」の人生でした。受肉して肉体を持つということは、肉体はやがて朽ちて死にますから、死に向かっていくということです。イエス様は、「なぜ、天から降って地上に来られたのか?」「なぜ、受肉されたのか?」「なぜ、生まれたのが家畜小屋の飼い葉桶なのか?」「なぜ、貧しい羊飼い、病気の人、罪人と呼ばれる人たちの所へいったのか?」「なぜ、十字架に架かられ、陰府に下ったのか?」下へ下へ下へと、降っていかれたところに人間の罪があったからです。人間の自分勝手、自己中心のという罪の故に、出産間近い妊婦が家畜小屋で出産することになった。弱い者を見下す、不寛容があるが故に、病気や障害のある人のもとに行くことにした。欲深い権力者たちの陰謀によって、罪のない人を十字架に架けてこの世から消し去ろうとした故に、十字架に架かられた。それらの人間の罪を、一身に身にまとって、その罪の贖いとして陰府にくだり、生け贄となってくださった。なぜそうされたのか・・・それは「愛」故にそうされたのです。わたしたち人間を愛するが故に「へりくだり」罪を背負って十字架で死を受けてくださった。
そこで何が起こったのでしょうか? 三日目に死人のうちから蘇ってくださった。そして天に昇られました。究極の「へりくだり」の先に逆転が起こったのです。死への勝利、罪の贖い、新しい命、それも復活という永遠の命です。それは神の栄光を現わすという、「へりくだり」から栄光という逆転が起こったのです。
今年の主題聖句「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。」この事がイエス様の生涯に起こり、私たちも「へりくだる」その先に、高めていただけるというキリスト者の希望があるのです。

Ⅳ.自由主義社会の守護神

今年の主題は、「神の御前に自分を低くする」という言葉でした。自分を低くする、その模範はイエス様です。
例えば、あの12年間出血の止まらない病をもった女性と出会った時、立ち止まって話をじっくりと聞いて下さったことも、イエス様の謙遜を現わす出来事の一つです。ある人物が「十二年間出血が止まらずに苦しんでいた女性。聖書に出てくる『十二』や『七』という数字は象徴的な数字で永遠のように長く、克服しがたい時間を意味している。だからこの女性の出血は生命の流出のようなもの。この女性がどれほどの苦しみとともに生きていたかを感じることができる」。と、この長血の女の心情を説明していました。そのように説明したのはドイツの首相を今年の12月に退任したメルケル元首相です。彼女にクリスチャンのもつ「へりくだり」の心がなければ、この新約聖書に出てくる女性の苦しみに共感することはできないでしょう。
かつてニューヨークタイムズの記事で、「自由主義社会の守護神」という呼び名は、アメリカ大統領ではなく、メルケル首相にふさわしいと書かれました。私も世界の首相や大統領が次々と入れ代わる中で、16年間首相を務めたメルケル元首相は、他のどの国のリーダーとも一線を画した人だと感じていました。アメリカやイギリスのリーダーが大衆化、世界の指導者が右傾化する中で、まさに「自由主義社会の守護神」として異色な存在でした。彼女はもともと東ドイツ出身の牧師の娘です。子どもの頃から、教会の施設の中で育ったクリスチャンですし、政治家になっても教会の集会でメッセージをしていました。彼女は子どもの頃、社会主義・東ドイツという自由を制限された国で育ちました。彼女が他の国のリーダーと、政治姿勢に違いを見せたのは難民受け入れ問題でした。内戦が続くシリアなどから難民が欧州に押し寄せた時、メルケル首相は内外の反対を押し切って大量の難民を受け入れました。このことで支持率は大きく下がりましたが、寄留者や異邦人など、外から来た虐げられた人々に「手を差し伸べる」ことは福音のエッセンスです。
次第に近い関係になっていったのがフランシスコ教皇でした。フランシスコ教皇もローマ法王になって、最初に訪問したのが難民たちがたどり着く島でした。法王は「すべての難民は神の子である」と語った人です。ヨーロッパにおいて難民受け入れを強く主張したのは、メルケル元首相とフランシスコ教皇の二人でした。彼女が牧師である父が牧会した教会でメッセージした時の言葉があります。
「神を信じる者として、自分が引き受ける課題の中に『へりくだり』も含まれるというのは、政治の世界では、とりわけ重要なことだと思います。それによってわたしたちキリスト者は明らかに、自分のちからによって地上に繁栄をもたらすことができると信じる人たちとは違っています」。
自分の力ではなく神を信じる者だと言うのです。イエス様の生涯に倣って『へりくだる』者である、そこが他の指導者とは違うというのです。

Ⅴ.  みんな金メダル

今年のみどり幼稚園の運動会は「ミドリンピック」と呼んでいました。その様子を写真で見ると三輪車競争の様子が写っていました。三輪車に載っている子ども達と、それを押してあげたり、引っ張っている息子の姿が写っていました。そういう競技なのかと思いましたら、そうではなくて、うちの息子が勝手に、三輪車に乗って競争している友だちを、押したり引っ張って手伝っていたそうなのです。勿論、へりくだりという意識はまだないでしょう。しかし、みどり幼稚園では、競技に出た子どもも、お手伝いをする子も全員が金メダルをもらいました。
そして、神様も謙遜を教えてくださったイエス様に倣って、へりくだりの主イエス・キリストを信じるすべての者に金メダルをかけてくださいます。この金メダルは命の光です。制限を余儀なくされる社会にあっても、へりくだる者を、逆に高めてくださる光です。「光あれ」と闇に光を放ってくださる金メダルが、わたしたちの心に宿っています。お祈りしましょう。

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