種を蒔く人ってどんな人?
和田一郎副牧師
マタイによる福音書13章1-9節
2022年10月30日
Ⅰ. 種を蒔く人のたとえ
イエスはガリラヤ湖の水辺に繫いであった舟に座って、岸辺に立つ群衆に向かって神様の話をしてくださいました。それは譬え話でした。
ある人が種を蒔きに出かけて行きました。種を蒔く人は、四つの土地に種を蒔きました。一つ目、道端に蒔いた。すると鳥がやってきて食べてしまった。二つ目、石だらけの土地に蒔いた。するとすぐに芽を出したが、日が昇ると種は根がないので焼けてしまった。三つ目、茨の間に蒔いた。すると茨に塞がれて育たなかった。四つ目、良い土地に蒔いた。すると成長して実を結んだ。しかもある種は百倍、六十倍、三十倍の実を結んだ。
せっかく種が蒔かれたのに、「道端」「石だらけ」「茨の間」に蒔かれた種は無駄になってしまった、しかし、良い土地に蒔かれた種は数十倍という豊かな実りがあったのです。これは譬え話です。種を蒔く人とは神様のことです、神様はご自分のメッセージを、種を蒔くように与え続けています。そして、種を蒔かれた土地というのは、人間の心です。同じ種が蒔かれたとしても、芽がでて、成長して、実を結ぶか結ばないかは、神様のメッセージを聞くのか?聞かないのか?メッセージを聞いて信じれば多くの実を結ぶ。ですから最後にイエス様は言ったのです。「耳のある者は聞きなさい」。
実を結ばない土地には理由があります。
一つ目「道端」に蒔かれた種は、鳥が食べてしまった。これは神様の言葉を聞いても、邪魔するものがやって来て、その人の心に蒔かれたものを奪ってしまうだろうと言うのです。今の時代、聖書を読むことを邪魔するものといえば、自分自身の感覚に共感する情報だけを頼りに生きている人で、神様の御言葉を聞いても、鳥が種を取っていくように御言葉を奪い取ってしまうのです。
二つ目、「石だらけで土の少ない所」は、御言葉を聞くとすぐに喜んで受け入れるのですが、自分の中に根を持っていないので、ほんの短期間しか続きません。忙しくなると、すぐにつまずいてしまう。三つ目、「茨の間に蒔かれたもの」は、御言葉を聞く人のことです。聞くのですが、世の中の誘惑がおおいかぶさって、御言葉を塞いでしまうために、実を結びません。第四の「良い土地」、「御言葉を聞いて受け入れ、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶ人たち」とは、イエス様を信じる信仰者たちのことです。
一つ目から三つ目までの土地のように、聖書の御言葉を、聞いているが、それでも信仰をもつまでには至らないという人は沢山いるわけです。信仰をもったとしても、忙しくなったりして教会から遠ざかってしまうのです。今の世の中は、忙しいですし、不安にさせる心配事も多いので、常に茨に囲まれていると言えます。また、そのことによってわたし達自身の心が、自ら茨となってしまうことがあります。
Ⅱ. 絶えることのない種
では、蒔かれた種は無駄であったのでしょうか?せっかく神様のメッセージという種が蒔かれたのに、「道端」「石の上」「茨の間」に蒔かれた種のように無駄になってしまったのでしょうか。
話は変わりますが、わたしは牧師になるために東京基督教大学に入学しました。四年間の全寮制という生活の中で、寮の周りを緑化しようということになって、種を蒔くことになったのです。しかし、もともと剥き出しの固い土ばかりの土地だったので、そこを耕して、学校の裏にあった堆肥を混ぜて耕し始めました。種を蒔いて緑を増やそうという計画でしたが、まず種を蒔くまでが大変だったのです。つまり種を蒔く人は、種蒔きだけで終わらないということです。土を耕し石をどけ、水をまく。神様は種を蒔くだけではなく、実を結ぶために止まることがないのです。
先ほどのたとえ話しの中の、四つの土地のうち、自分はどこに当てはまると思いますか?
道端に落ちた種も、石の上に落ちた種も、茨の上に落ちた種も、自分のことだと思うのではないでしょうか。一つと言うよりも、どれもそれぞれに自分に当てはまるところがあると思います。どの土地であっても神様は、土を耕し、石をどけ、水をまき、雑草もとろうとされているのです。神様の働きかけは止まることがない、終わることがないのです。
ヨハネの福音書に次の言葉があります。
「わたしたちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた」(ヨハネ1:16)。
神様は、恵みの上にさらに恵みを与えられる方で、その恵みは海辺に打ち寄せる波のようです。次から次へと打ち寄せてくる波と同じように、神様は御言葉の種を蒔き続けるのです。
また別の聖書箇所で「ブドウ園の主人」の譬え話の中でイエス様は言われました。神様は夜明けに始まって、九時にも、十二時、三時、夕方の五時にも繰り返し出かけて行く方。何度も出かけていって人を雇って賃金を払おうとするブドウ園の主人のような方だと教えています。
神様は熱心に、繰り返し、日々尽きることもなく、御言葉の種を蒔き続ける方なのです。
Ⅲ. 良い土地としてくださる方
そうは言われても、自分はとても四つ目のような良い土地にはなれないと思われる人が多いのではないでしょうか?良い土地というのは、ふかふかの柔らかい土。石も混ざっていないし、雑草もないキレイな土地でないと、数十倍もの実は結ばない。自分の心はそんな良い土地ではないから、信仰が育つとは思えないと思われるかも知れません。
先週、わたしは家族と山に登った時の話をしました。北八ヶ岳の高見石という頂きに登ったのです。そこの森は大きな岩がゴロゴロしていて、木にとっては条件の悪い土地なのです。フカフカの柔らかい土どころか、ゴツゴツした岩に巻き付くように根をはって育った木ばかりでした。しかし、たくましく生きて深い森となっていました。あんなにゴツゴツした岩の上に森ができている。
わたしたち人間は、石や茨のある道端にすぎない存在です。石がゴロゴロしていても、茨が覆っていても、それを良い土地としてくださるのは神様です。神様は、どんな土地になっているのか吟味する方ではありません。どの土地に蒔こうかと、品定めをする方ではないのです。どんな道端でも、熱心に、御言葉の種を蒔き続けて下さり、固くて荒れた道端を、良い土地としてくださるのは神様です。
Ⅳ. 福音という真理の種
その蒔かれた御言葉の種の中身はいったい何でしょうか?その種は福音という良い知らせのことです。
とても単純な知らせです。つまり、イエス・キリストはわたしたちの罪の為に十字架で死なれ、三日後に復活して今も生きておられる、という知らせです。この単純で小さな種に命がある。本物の種には命があります。土に蒔かれた本物の種は、人の手によらずに命の芽を出すのです。自分の心の土は整っていないから、信仰は育たないと思われている、その方の心にも。本物の種は人の手によらずに成長していきます。神様が良い土地としてくださって実を結ぶことができるように、働きかけてくださっています。
「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である』(ヨハネ14:6)。
神は「自分の心の土は整っていない」と思われている人に向けて、真理に生きて欲しいと願われています。人の手によらず、良い土地としてくださって、実を結ぶことを願っておられます。
ここに集う信仰者たちも、今もまだ良い土地となるようにと、自分という石をどけていただき、欲という茨を取り除けていただいて成長している途中にあります。この大いなる恵みを共に預かってください。
お祈りいたします。