聖書と生きる

和田一郎副牧師
申命記6章1-9節 テサロニケの信徒への手紙二2章1-2節
2020年11月22日

Ⅰ. 動揺の原因

パウロは、テサロニケの町に行った時に、再臨の時がくると説明していました。町を離れてからも手紙で再臨について教えていました。テサロニケの人々は、その時がいつ来るのかということが気がかりでした。多くの人がその日は近いと思い、中にはもう再臨の日が来るのだから働く必要はないという人までいました。一方で、再臨はもうすでに起こったと言う者さえ現れたとあります。パウロは動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしいと、噂話に扇動されて驚かないようにと、この手紙で伝えています。
確かにパウロはローマ書や、フィリピの手紙で「主の日が近い」といったことを伝えています。しかし、それは現実の時間的な近さというよりも、その日が必ず来ること、そして、その日が来るまでに今やるべきことを強調していたのです。しかし、それでもそのことを正しく理解しない人がいました。再臨の時が「すぐ来る、すぐ来る」と言いながら、いつまでたっても来ないとなれば、それはやがて失望となるでしょう。ですから、正しい聖書の読み方、解釈の仕方というものはとても大切なことです。
信仰生活は、聖書の言葉を正しく理解して、理解した教えに従って生きていくということです。しかし、そもそも聖書の解釈に誤解や間違いがあるならば、それはとんでもないことになってしまいます。テサロニケの人々の中には、そのように聖書の正しい理解が足りなくて、動揺したり分別を無くす人があったのです。

Ⅱ. 聖書の読み方【聖書は神の言葉】

聖書をどのように読むのか、どのように解釈するのか、キリスト教会はそのことを2千年のあいだ、ずっと取り組んできました。聖書を正しく理解するうえで大切にしたいことの中で、今日は二つのことを考えたいと思います。
1つ目は「聖書は神の言葉である」ということです。聖書には聖書が神の言葉であると書いてあります。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(テモテへの手紙3章16節)。聖書は神の言葉だと言っても書いたのは人間です。しかし、その著者一人一人は神の霊に導かれて、神の知恵によって書かれた書物だということです。これはイエス様も、おっしゃっていました、最後の晩餐の席で弟子達に、そうなると話していたのです。「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ福音書14章26)と弟子たちに言いましたが、その通りに弟子達は聖霊の力をかりて、イエス様がおこなったこと、言われたことを思い起こして書き残し、それが聖書になりました。
しかし、疑い深い人達はいつの時代でも存在します。聖書をただ神の言葉として鵜呑みにするのではなくて、もっと人間個人の独自性を尊重した読み方をしようとする人たちがいました。明治時代、日本にもそういった神学が入ってきました。例えば創世記や出エジプト記などモーセが書いたモーセ五書も、別々の資料を後の人たちがまとめたものだとして、聖書を分解して解釈しようとする研究があります。唯一の神の御言葉であるという、上からの啓示としての聖書観とは違うアプローチです。研究としてはとても大事な取組みですが、そういったことから派生して、聖書をここは神の言葉、ここは間違っているというように、聖書の読み方が研究者ごとに多様になってしまいます。宇田進先生という神学者は、そういった聖書批評について「知的な深まりと、エリート性が、それと引き換えに一般の人々との接点を失ったばかりでなく、宣教のスピリット、信仰のエネルギーを喪失させてしまった」と評していました。つまり、聖書を研究資料にしてしまって、わたしたちの救いや日常生活とは関係ないものにしてしまうのです。パウロも主張しています、「あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです・・・事実それは神の言葉であり、信じているあなたがたの中に現に働いている」(テサロニケの信徒への手紙一2章13節)。聖書の言葉は神の言葉として受入れて、はじめて心や体の中で生き生きと働き始めるのです。

Ⅲ.聖書の読み方【聖書は文脈で読む】

もう一つ聖書の読み方で大切にしたいのは、「聖書は文脈で読む」ということです。文脈というのは、前後の文章の流れのことです。つまり、どこか一部の言葉をつまみ出して理解してはいけないということです。もっと言うならば、その書を書いた著者の意図や著者がその書全体で言わんとしていること、そして当時の時代背景などから理解するということを、文脈から理解するといいます。その書を書いた著者の立場に立って、その場所や時代の背景や文章の前後で語られている内容から解釈しないと、間違った理解をすることになります。そうでなければ、人は自分が感じたままに理解しようとします。それも実は大切なのですが、しかし、人は大抵自分の経験に引き込んで理解しようとします。そして、何よりも文脈から理解しようとしなければ、聖書のある部分の言葉を、自分勝手に利用しようとします。
パウロは今日の聖書箇所で、どのような背景から何を言わんとしたのでしょうか。2節を読んでみましょう、再臨についてです。「主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」。つまり、再臨がいつ来るのか、ということで動揺している人たちに向けた、パウロのメッセージです。それは、第一のテサロニケの手紙にその背景があります。テサロニケの手紙一5章1節でパウロは再臨について言いました。「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。・・・(6節)従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」というメッセージをパウロは手紙で送っていました。イエス様もマルコによる福音書13章の最後の晩餐の席上で、再臨について語った教えがあります。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。・・・(35)だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」(マルコによる福音書13章32-37節)。
いかがでしょうか、どちらもここで言わんとしているメッセージは、「目を覚ましていなさい」ということです。再臨の日がいつ来るのかではなく、目を覚まして、今を生きることがメッセージのポイントです。イエス様は、ご自分がまた来られる、その再臨までの間、わたしたちの生活の在り方を教えてくださいました。パウロのメッセージも同じです。実はマルコによる福音書を書いたマルコとパウロは、一緒に第一次宣教旅行に行きましたから、イエス様が伝えた再臨についての教えも、パウロは聞いていたのではないかと思いました。

Ⅳ.「ウィズバイブル ウィズコロナ」

そして、この「目を覚ましていなさい」というパウロのメッセージは、テサロニケの人々を越えて、今を生きる私たちにも向けられているメッセージです。今日の聖書箇所の2節後半にあるように、動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないで欲しい、とありますが、コロナ渦にあっても動揺しないで聖書からのメッセージを正しく受け取って生活していきたいと思うのです。
今日のパウロのメッセージを受けて、ぜひ皆さんにお勧めしたいのが聖書を通読することです。通読は自分の意思とは関係なく、上から降りてくる啓示が、その日その日で与えられると思います。このコロナ渦にあって是非チャレンジしてみてはいかがでしょうか。
「聖書と生きる」ということは「目を覚まして生きる」ということの大きな土台になります。そして、目を覚まして生きるキリスト者には、このパンデミックを収束につなげる役割も期待されているのではないでしょうか。大切な人を失う悲しみに世界が覆われている中で、信仰による心の救いは、今このとき、いつにも増して重要です。
「ウィズバイブル、ウィズコロナ」ウィズバイブルがあってこそ、ウィズコロナという新しいスタイルの生活にも光が灯ります。聖書の力に確信をもって生活の場で目を覚まして生きていきましょう。お祈りをいたします。

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