待つこと―子どもの成長を祈る

松本雅弘牧師
ルカによる福音書13章6-9節
2023年11月12日

Ⅰ.ぶどう畑の中のいちじくの木

今日は、成長感謝礼拝です。先ほどお読みしました聖書個所から、御言葉に耳を傾けていきたいと思います。
これは主イエスがお語りくださった譬え話です。ここで「ある人」が登場しますが、たぶん、ぶどう園の主人でしょう。ぶどう園の主人がしたことは、ぶどう園の中に1本のいちじく、ぶどうではありません、いちじくの木を植えて、実を探しに来た。それがこの譬え話の始まりです。
ここで主イエスは、「いちじく」を「人」に譬えています。「いちじく」の立場に立って考えてみたいと思います。ぶどう畑の中に、自分以外、みんなぶどうの木の中に、1本だけいちじくの木があったのです。つまりいちじくはたった1人でした。どちらを向いても自分と同じものは誰1人いない。また、いちじくですから、周囲のぶどうの木のように、ぶどうを実らせることも出来ません。いちじくはいちじくの実しか実らせることはできない。
ある人が語っていましたが、教育ということを考えます時に、ある時は、「人と同じにする」ことが求められ、また一方では、「人よりも出来る」ことが重視される場合がある、と。そしてしばしば、こうした「人と同じでいること」と「人よりも出来ること」相矛盾するのですが、この2つが一般の教育の現場で、同時に求められているように思います。

Ⅱ. 切り倒される可能性のあったいちじく

7節にこう書かれています。「そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。切り倒してしまえ。なぜ、土地を無駄にしておくのか。』」
この時、いちじくの木は切り倒されそうになっていました。それはみんなと同じでないからです。そしていちじく自身も、自分だけ違っていたので、いつも居心地が悪く、実際に「切り倒してしまえ」とか「場所ふさぎ!」なんて言われるわけですから、自分の存在自体がいつも否定されるような経験もしていました。
私たちは、みんなと一緒に生活する中で、「みんなの中のひとり」である自分に気づきます。そして、「自分と違うみんな」に出会い、「みんなと違う自分」に気づく経験をするでしょう。ちょうどぶどう畑の中のたった1本のいちじくの木のようである自分に気づく。そして、不安になることもあります。
ところで聖書は、人間のことを「アンスロポス」というギリシャ語で言い表していますが、この「人間」と訳される「アンスロポス」という言葉の意味は、「上を向く者」、「天を仰ぐ者」、もっと言えば、「神に祈り、神を礼拝する者」という意味がある言葉なのです。ところが「上を向く者」であることを忘れる時に、必ず「下を向いて」しまう。そして下を向いて何をするか、と言えば、横との比べあいをするのです。そして不安になります。さらに、自分がぶどうではなく、いちじくであることに不満になるのです。
ですから、自分をそのままで受けとめてくれる拠り所が欲しい。「お前はお前でいい!」と言って欲しい。それを言って上げられる人は、その子の近くにいる私たち大人でしょう。でも実際は逆を言ってしまうことが多い。
「あんたのそこが駄目」とか「どうして誰々ちゃんのようにできないの!」とか。7節のように、いちじくの木を切り倒したくなる思いに駆られるのです。何故か、「上を向く者」であることを忘れてしまっているから、というのが聖書の答えです。

Ⅲ. 園丁はいちじくの実りを期待していた

では、ここに登場する「園丁」とは、畑のお世話をする農夫のことですが、ここではイエスさまが園丁にたとえられています。そのイエスさまは、私たちをどのように見ていてくださるのか。
8節をご覧ください。ここでぶどう園のお世話をしていた園丁は、突然やって来たこのぶどう園の主人の意見に反対しました。そして、「今年もこのままにしておいてください」と言ったのです。「待ってみましょう」と頼んだのです。「待つ」、言い換えれば、「時間をかける」ということでしょう。
ある人が、「LOVE(愛)の綴りを知っていますか?」と問われたそうです。質問の意味が分からなかったので、変な顔をして答えずにいるとその人は、「LOVE(愛)とはT-I-M-Eと書くんですよ」と話されたそうです。確かに本当に大切なものは時間がかかる。決して急いで出来るものではないということでしょう。
確かに急ぎながら愛することはできません。考えたり、食べたり、笑ったり、こうして礼拝を捧げることも急いですることなどできない。子育てもそうです。夫婦や親子の関係、人間関係、神さまとの関係も手間暇かかるわけです。
ここで園丁は、あくまでもいちじくが実をつけることを期待していた。いや、期待していたというより、実をつけることを確信していたのだと思います。だから「待ちましょう。時間を掛けましょう」と言うことができました。
大人たちが子どもたちの成長を願うということは、まだ起こっていない出来事を信じること、見えていない出来事を期待して待つことです。
もう1つ、とても大切なことを教えられます。この場面で園丁が期待していたのは、切り倒されそうになっていたいちじくの木が、他の木と同じような実を結ぶことではありません。ぶどうの木ではないのですから。そうではなくて、あくまでもいちじくの木ですから、いちじくの実を期待して待っていたのです。
よくお話するのですが、「いちじくとぶどうを比べて、どっちが凄い?」と質問されたら、私たちは答えに困ってしまいます。「どちらが好き?」と聞かれれば答えられますが…。神さまはいちじくがぶどうの実を実らせることを期待してはおられません。でも意外に、いちじくが他の木と同じようにぶどうの実を結ぶことを一生懸命期待し、不安になり、イライラすることがあるのではないでしょうか?!
いちじくはいちじくの実を豊かに結ぶことが神さまの願いです。ぶどうはぶどうの実を実らせることが神さまの意図されたことなのです。
ですから、この子には、この子としての良さがある。「誰々ちゃんのように」ではなく、「この子そのもの」であればよい。「神さまの御心がなるのを待ちましょう」と、園丁はそのように言ったのです。これがイエスさまの御心、イエスさまが私たちをご覧になる眼差しなのではないでしょうか。
では待つだけで、何もしなかったのか?決してそうではありません。手入れをしたのです。信じて待つことは、何もしないことではありません。木の周りを掘って、そして肥料を撒きます。さらに根っこの周りを掘り、必要な栄養が必要なところに行き届くようにと努めているのです。色々と工夫をしています。

Ⅳ. 私たちもいちじくの木

よくよく考えて見ますと、子どもも大人も、私たち誰もが、ある意味でいちじくの木のようではないでしょうか。身の置き所のないような自分を抱えて苦闘することがある。個性といえばかっこいいですが、でも、本当はやっかいな自分を抱えていることもあります。実は、私たち1人ひとりが、イエスさまと言う園丁に待ってもらい、世話してもらっているいちじくの木であることを受け止めるように、まずイエスさまは求めておられる。この譬え話は、そのことを私たちに伝えているように思うのです。
ぶどうの木と比較して、落ち込む必要はない。ぶどうの木になれない自分であってよいわけです。いちじくの木なのですから。そのことをしっかりと受け止めさせてくださるお方こそ、私をいちじくとしてお造り下さった神さまであることを覚えたい。
私たちをぶどうではなくいちじくの木としてお育てくださるお方は神さまですから、まず「上を向く者」として、私たちが問題にぶつかり、分からなくなる時に、私を私として生かし、その子をその子として生かしておられる、神さまにその御心を求めるために、常に上を向き、祈り、求める者として歩みたいと願います。
お祈りします。