主と共に踏み出し歩む共同体をめざしてー 2024年の教会活動方針を踏まえて

和田一郎副牧師 説教要約
民数記13章25節-14章9節 
2023年11月5日

Ⅰ. はじめに

毎年、11月第1主日の礼拝は、翌年の教会活動方針と、主題聖句から分ち合うことにしております。来年の主題聖句は、民数記から選びました。

Ⅱ. 旅への備えと前進

民数記のテーマは「約束の地に希望があることを信じて歩むこと」を教えています。それは今を生きる私たちの人生にも示唆を与えてくれます。人生は旅に譬えられますがモーセとイスラエルの民は、数十万人もの群れとなって荒れ野の旅を始めました。旅には目的地があります。カナンという目的地がどんな所なのか。
主なる神様はそれを見てくるように命じました。本来ならば、偵察する必要もなかったのだと思います。神様に信頼して、ただ向かって行けばいいだけのことです。しかし、「偵察させなさい」と派遣させたのには神様の意図があったことでしょう。神様が与える約束の土地を、どのように見て、どのように受け取るのか。それも、神の民となるための必要な訓練であったのです。 
カナンに遣わされた偵察隊12人が40日間にわたって調査して帰って来ました。彼らからの報告によって、二つの異なる意見に分かれました。一つはカレブとヨシュアが言った「ぜひとも上って行き、カナンの地に入っていきましょう。必ず、それができるから」というもの。もう一つは「あの民のところに上ってはいけない。あの民は強いからだ」というものでした。多数決によれば2対10です。主なる神様が、アブラハムとその子孫に与えてくださったカナンの地を、「自分たちのものにはとてもできない」という結論に傾いてしまいました。これでは、そもそも何のために彼らがエジプトの地から連れ出されたのか、分からなくなってしまいます。一見、常識的な慎重論の中に、神を退ける心、不信仰の思いが隠されているのです。「エジプトへ帰ろう」「エジプトの方が良かった」と。
日本人は慎重ですので、不確かなことに向かって行くことを良しとしない文化があります。とても常識的なのです。彼らの判断を不信仰と思えない方もいると思います。それはリーダーのモーセに対しても同じような思いがあるのではないでしょうか。荒れ野にいた人々の咽が渇いた時、水を求めて神様に願うと、岩を叩くように言われました。岩を二度打つと、水がたくさん湧き出てきたので皆が喜んだのです。ところが「私を信じることをせず、私を聖としなかった」と、神様は言われました。私は最初にこれを読んだ時、何が悪いのか分かりませんでしたが、一度打てば十分なのに、二度打ってしまった、それが不信仰だと見られたのです。恐らくモーセの心の中までご覧になっている神様ですから、何かよこしまな心があったのかも知れません。しかし、主のなさることに念のためとか、疑問を口にする必要はないわけです。偵察隊の報告を聞いて、慎重な意見に偏ったことで、イスラエルの民は大きく揺れました。それに対して主の厳しいさばきが下されました。彼らはその後、38年もかけて試練の旅を続けなければなりませんでした。そして、カナンの地に入ることが許されたのは、たったの二人だけでした。ヨシュアとカレブです。「恐れてはなりません。主が共にいてくださる」と、主に信頼した二人だけだったのです。

Ⅲ. 「衰退期」にある日本の教会にあって

今年9月に日本伝道会議が行われました。それに向けて『データブック』が出版され、日本の教会の現状と課題が報告されていました。そこには、「日本の教会は、教勢データから見るかぎり、「停滞」 を通り越して「衰退」に入っています。認めたくないことではありますが、この現実を直視することなしに展望は開けません・・・」とありました。コロナ禍になる前から、日本の教会の停滞・衰退が指摘されていたわけですが、それが一気に加速してしまったわけです。まさに荒れ野を旅するイスラエルの民が、途方に暮れている様子と重なるのです。

Ⅳ. 2024年活動方針

<主題>「主と共に踏み出し歩む共同体をめざして」 
<主題聖句>「私たちには主が共におられます」(民数記14章9節)。
2024年4月に松本雅弘牧師から和田一郎牧師へと担任牧師をバトンタッチして、宮井岳彦牧師を招聘して、新しい牧会体制をスタートさせます。
モーセの後を引き継いだヨシュアとイスラエルの民は、約束の地に向かう時に不安と恐れを感じました。相手が強そうに見えたのは確かです。先々に不安を感じるのは確かでしょう。しかし、9節の「ただ」が大事なのです。「ただ、主に逆らってはなりません。その地の民を恐れてもなりません・・・私たちには主が共におられます」
相手が強く思える、不安を感じる、その感情は事実ですが、主が共にいてくださるという、もう一つの事実があります。私たちには主が共におられる。その事実を認識することが、信仰共同体を一つにし、歩み続ける力となるのです。 
今年は「ウィズコロナの時代を見据えて」という主題で歩んできましたが、2024 年は本格的に「コロナ後」を見据えて、このコロナ下の 3 年間で変化したものを元に戻すのか、現状を継続するのか、それとも新たな時代を見据えて刷新していくのかを問われる年です。礼拝については、教会に出向かなくてもオンラインで礼拝ができることが当たり前になり、礼拝を共に捧げるということの意味を考えさせられました。このような時だからこそ、集まること、顔を合わせること、「共に」礼拝を捧げる喜びを味わうといった共同体の恵みを大切にしたいと思うのです。それとともに、事情があって礼拝堂での礼拝に集うことができない方も、礼拝を中心とした信仰共同体の一員であることを確認し合っていけるよう願っています。
宣教は教会の存在意義そのものです。神はこの地域に宣教の働きのために、教会と幼稚園を置かれました。幼稚園が高座教会の宣教の大動脈であることは、これまでと変わりありません。さらに子どもミニストリーを通して、地域の子ども達と保護者との関係構築を深めていきたいと思います。また、頻度が増えつつある葬送儀礼があります。病床におられる方の訪問から、召された時の祈祷、葬儀、納骨、毎年の記念礼拝という一連の葬送儀礼において「教会でやって良かった」という感想をお聞きます。最近は教会に来ていない家族も、家族が過ごした教会を、心の故郷のように思っていらっしゃる方が多いことに驚かされ、宣教の可能性を感じます。冠婚葬祭という人生の通過儀礼を通しての宣教拡大を検討していきたいと思うのです。

Ⅴ. 祝福を受け継ぐために召された

 今年の1月、新しい年が始まった時は、いよいよコロナが落ち着き、以前のような教会生活が戻ってくるのではないかと思いました。確かにコロナウイルスは第5類に移行しましたが、礼拝に集う方は回復していません。礼拝を通して主が共におられるという恵み深さ、主が臨在されている豊かな礼拝を味わっていきたいと思うのです。
荒れ野を旅するイスラエルの民には、主なる神様が共に歩んでくださった、ご臨在を感じます。荒れ野の旅において細やかな配慮をし、必要を満たして下さいました。日々の食糧となるマナとウズラを与え、火の柱と雲の柱で昼夜にわたって導き、幕屋の設計図は寸法まで細やかに示してくださり、時にはお節介が過ぎると思うぐらいです。私たちの信仰の旅路においても主は細やかな配慮と訓練を計画してくださっています。
カナンという約束の地は、イスラエルの民が、神様の戒めを守ったご褒美としえ与えられれるのではありません。すでに私たちに与えてくださっているものを素直に受け取り、受け継ぐ、相続していくことを求められています。私たちのこの高座教会という、この地域に与えられtら宣教の器を受け継ぎ、相続していくことは、神の恵み、祝福を受け取るということです。
「最後に言います。皆思いを一つにし、同情し合い、きょうだいを愛し、憐れみ深く、謙虚でありなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたからです」(ペトロの手紙一3章8-9節)。
お祈りいたします。