おっちょこちょいな人は聞いてください!

宮井岳彦牧師 説教要約
ルカによる福音書15章8-10節
2023年10月15日

Ⅰ. 天を覗いてみたら…

私が礼拝の時によく思うのは「一期一会」という言葉です。日本国語大辞典ではこのように語釈されていました。「一生に一度会うこと。また、一生に一度限りであること。」元々は茶の湯の心得を表す言葉のようです。辞書では更にこのような説明がありました。「茶室での交会の心構え、態度を示す語句として発生し、後、人との出会いを大切にするという一般語として用いるようになった。」良い言葉だと思います。今日のこの礼拝も、一期一会の礼拝です。この礼拝は、今日、この時にしかない。ただ一度限りのかけがえのない時間。本当に尊い時間です。今日、この礼拝であなたと出会えたことはかけがえのない奇蹟。私はそう信じています。
今日は歓迎礼拝です。初めての方も、まだ何度目かという方も、何十年もという方も、どなたにも、一人の牧師として申し上げたい。ようこそ、礼拝へ!心からの歓迎をお伝えします。そして、他の誰よりも先に神さまが皆さんを歓迎しておられます。この一期一会のかけがえのないとき、ここで、あなたと一緒に神さまを礼拝できることが心から嬉しいです!
神さまに歓迎されて礼拝に出ると、私たちは、天を覗き込むことができます。神さまに礼拝を献げるとき、私たちの上で天が開いているのです。私たちはそこから天を覗き込んで、天で何が起こっているのかを見ることができる。今、天で一体何が起こっているというのか?聖書にはこんなふうに書いてあります。「このように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の天使たちの間に喜びがある。」天使たちが喜んでいる、と書いてあります。何を喜んでいるのか?天使たちが喜んでいるのは、あなたのことです。あなたが今、ここにいることです。しかも、ここには「一人の」と書いてあります。十把一絡げではない。あなたという一人の存在を喜んで、天が震えている。私たちが天を覗き込むと、そうやって喜んでいる天がそこに広がっているのです。

Ⅱ. おっちょこちょいな人

今日は主イエス・キリストが話した譬え話を読んでいます。私はこの話が大好きです。他人事とは思えない。ある女が銀貨を十枚持っていましたが、その内の一枚をなくしてしまった。そうしたら、灯をつけ、家を掃き、見つけるまで念入りに捜すだろう、という話です。
この銀貨は一枚でおおよそ一人の労働者の一日分の賃金にあたるくらいの価値のようです。ただ、聖書を研究する学者によると、この十枚の銀貨というのは単に一日分の労賃の十日分ということではなく、結婚持参金のようなものだったのではないかと推測されているようです。当時のこの地域の社会では、妻たちは銀貨を紐でつなげてネックレスのような形状にして婚家に持参し、大切に身につけていたようです。つまり、その内の一枚というのは彼女にとっては他とは替えの効かないかけがえのない一枚だった。この女の宝物だった。その内の一枚が何かの拍子で失われてしまった。
2000年前が舞台になっている話です。当然電気はない。窓も小さかったでしょうから、家の中は昼でも薄暗かったと思います。だから灯をつける。それでもよく見えない奥の方にあるかもしれない。箒で掃いて、カチリと音がしないか耳をそばだてて念入りに捜したに違いない。かけがえのない宝物だから。
私には本当に他人事とは思えません。私もよく物をなくすのです。しょっちゅう捜し物をしています。足でも生えてどこかに行ってしまったんじゃないか、子どもが勝手にどこかにやってしまったんじゃないか、そんなあらぬ疑いで頭をいっぱいにしながら捜します。自分のおっちょこちょいが恨めしくなります。

Ⅲ. 羊、銀貨、息子

ところで、この話は実はこれだけの単独の話ではありません。ルカによる福音書第15章というところを開いています。ざっと見てみると、三つの譬え話が連なっていることに気付きます。
最初は羊飼いの話です。百匹の羊を持っている人がいたが、その中の一匹がいなくなってしまった。そうしたら、この人は見つかるまで捜し歩くだろう、という話。二つ目が今日の十枚の銀貨を持つ女の話。そして三つ目は、二人の息子を持つ父がいたが、その内の一人が財産の分け前を要求し、手に入れたら遠い外国に家出していなくなってしまった、という話です。
失われた羊。失われた銀貨。失われた息子。失われたかけがえのない宝と、それを捜す人たちの話が連なっています。
なぜ、イエスさまはこんな話を三つも重ねてしたのでしょうか。この章の最初を見ると、その理由が分かります。イエスさまの側に徴税人や罪人が近寄って話を聞こうとしていたときのこと、ファリサイ派の人々や律法学者たちがそれを見とがめて、文句を言いました。それに対してイエスさまがなさったのがこれらの譬え話です。
こうしてみると、ファリサイ派の人々や律法学者たちというのはとても性格の悪いイヤな人に見えます。なぜ「罪人」と言って誰かを排除するのか。誰がいたって良いではないか。私たちはそう思う。しかしファリサイ派や律法学者というのは当時の社会では尊敬を集める立派な人たちでした。むしろ徴税人や罪人の方が社会一般では「人間の屑」のように見られていました。例えば、徴税人。税金を集めるのが仕事でしたが、現代の税務署とは全然違います。彼らは規定の税率を無視してたくさん取り立てていました。しかしバックには国家権力があるので、誰も文句を言うことができない。徴税人は欲深く私腹を肥やす最低の人間と考えられていた。罪人呼ばわりされるなりの理由があったのです。
そんな徴税人やファリサイ派の人々を前にしてイエスさまがした話が、失われた羊、失われた銀貨、失われた息子の話だったのです。明らかに同じ話を繰り返しています。一匹の羊、一枚の銀貨、一人の息子。失われた者を捜す神の物語です。

Ⅳ. 銀貨の話の独自性

ただ、こうして三つの話を比較してよくよく考えてみると、この銀貨の話は他の二つとちょっと違います。羊がどうして迷子になってしまったのか?美味しい草があったのか、きれいな花があったのかは分かりませんが、何にしても、羊は自分で迷い出たに違いない。あの息子も、遊びたかったのか一旗揚げたかったのかは分かりませんが、自ら家を出ました。羊は自分で羊飼いから離れ、息子は自分で父親から離れました。しかし、銀貨は違います。銀貨には足が生えていません。銀貨は自分の意志でどこかに行くことができません。銀貨がなくなる理由は一つしかない。持ち主がなくしたからです。
これは、譬え話です。明らかに、銀貨は神さまの前から失われた人間をさしているし、女は神さまをさしています。しかし、どうでしょう。徴税人は自分で好き好んで徴税人の仕事をしているのではないでしょうか。2000年前の社会に職業選択の自由なんてなかったでしょうか。そうであるとしても、国家権力という虎の威を借りる狐のようにして庶民の金を巻き上げたり、他人からだまし取ったりしない徴税人になることだってできたのではないでしょうか。自ら選んで、このように生きてきたはずです。銀貨みたいに持ち主の不注意で失われたのではなかったのではないでしょうか。
私たちはどうでしょう?先ほど、私は自分がだらしないばかりに物をなくしたとき、子どもがどこかにやったんじゃないかとあらぬ疑いをかけては途方に暮れていると申しました。日常のよくあるような、たいしたことのない話に過ぎないかもしれません。しかしそんなつまらないようなことにも、自分の過失をすぐに人のせいにするといういやらしさが表れています。すぐに思ってしまいます。自分が今上手くいかないのはあの人が悪い、自分がこんな境遇なのはこの人のせいだ。そんなことをつぶやきながら、ちっとも自分の人生の責任を引き受けようとしない。
結局そうやって、人を愛することに失敗していきます。他人のせいにしながら、一体どうしてその人を愛することができるのでしょうか。愛すべき人を愛し得ない現実は、本当に惨めです。そんな私こそ、神さまの前から失われているのです。
それなのに、神さまは私を捜してくださっている。聖書はそう言います。しかも、まるで神さまの側に過失があるかのようにして!ご自分がなくしてしまったかのようにして!自分で勝手にいなくなった私を、私が失われていることをご自分の責任であるかのようにして捜してくださる。それが神さまです。
その上、見つけたら大喜びしてくださるのです。「そして、見つけたら、女友達や隣近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の天使たちの間に喜びがある。」
今、天が開けています。私たちが覗き込む天では、天使たちが大喜びしています。あなたという一人の人のための喜びに湧き上がっています。神さまは、あなたが神さまの御もとに帰って来たことを、心から喜んでおられるのです。
お祈りします。