あなたも宝をあずかっている!
宮井岳彦牧師 説教要約
ヨシュア記24章1-3a,14-15節
マタイによる福音書25章14-30節
2023年11月19日
Ⅰ. 私たちの感情を逆なでする譬え話
こういう聖書の御言葉を読むといつも思います。できることなら皆さんお一人おひとりに、今日のこの聖書の話をどう思うかを伺ってみたい。皆さんは主イエスがなさったこの譬え話をどう思われるでしょう。好きでしょうか、嫌いでしょうか?納得するでしょうか、しないでしょうか?いい話だと思われる方も、変な話だと思われる方もおられるでしょう。好きだなという方も、苦手だなという方もおられると思います。或いは、好きか嫌いかというよりも戸惑ってしまう、という方もおられるかもしれません。
感想はいろいろだと思いますが、それにしてもこの譬え話には私たちの感情を逆なでするようなところがあるのではないかと思います。まず何よりもどうしてこんなに不公平なのでしょうか。ある僕は5タラントン預かりましたが、他の僕は2タラントンと六割減です。更には1タラントンの僕に至っては八割減!あんまりにも不公平に思えます。これでは、1タラントンの僕が何かにチャレンジできなくても仕方ないのではないか。第一、土に埋めたといっても何かの不正をして着服したわけでもなし。どうしてあそこまで叱責されて、なけなしの1タラントンまで取り上げられなければならないのか?疑問は尽きません。
しかし今日皆さんに知って頂きたいことは、私たちは神さまから貴い宝を預かっている、という事実です。譬えの冒頭(14節)に「天の国は、ある人が旅に出るとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けるようなものである」と言われています。主イエス・キリストは、皆さんの手にご自分の財産、即ち宝を預けておられます。キリストから預かったすばらしい宝を皆さん一人ひとりが預かっておられる。聖書はそう言うのです。
Ⅱ. 信頼
実はこの譬え話には少し思い出があります。神学校での同級生がしてくれた話です。彼女は夏期伝道実習で静岡県にある教会に遣わされました。そこで生まれつきの障害を持っておられた青年と、その教会の牧師との対話を目の当たりにした。青年はこの譬えについて牧師に食ってかかりました。「1タラントンの僕は、神さまから頂いた大切なたった一つの宝をなくさないように、大切に大切に土の中にしまっておいたに違いない。それがどうしてあんな風に言われなければいけないのですか!」すると牧師がおっしゃったそうです。「大丈夫。もしもこの1タラントンを使って、失敗して損をしてなくなってしまっても、神さまはもう一度新しく1タラントンをくださるよ」と。私の大好きな話です。
これは主イエスがなさった譬え話です。ですからキリストの優しさを信頼してこの話を聞くことができる。確かに奇妙な話です。しかしこれはキリストの話ですから、安心して耳を傾けることができる話です。
私たちは、自分は1タラントンなのに隣のあの人は5タラントンだなと考えてしまいがちです。虎の子の1タラントンをなくしてしまったらどうしよう。そのように不安になってしまいます。しかし、預けてくださった御方を信頼して、自分がお預かりしている宝をしっかりと見たとき、そんな比較や不安はなくなってしまいます。
1タラントンというのは、およそ16年分の賃金に相当する額だそうです。16年飲まず食わずで働かなければ手にすることのできない額です。こんなにわずかで他の人に比べれば小さくて…と思い込んでいた1タラントンは、実は途方もない宝です。この譬えの主人であるキリストは、そんなかけがえのない宝を私たち一人ひとりに預けてくださっているのです。
Ⅲ. 「預ける」
「天の国は、ある人が旅に出るとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。」ここに「預ける」という言葉があります。この言葉は、ちょっと貸しておくというような意味ではありません。むしろ「託す」といった意味を持つ言葉です。管理を完全に任せてしまうような預け方を意味します。
同じ単語がとても意外な場面で使われています。「ユダは(祭司長たちに)イエスを引き渡そうと、機会をうかがっていた。」この「引き渡す」という言葉が「預ける」と訳されていた言葉です。ユダがイエスを引き渡せば、その身柄は祭司長たちの思うがままになります。もうユダの思い通りにはならない。この単語は、そのように相手に完全に渡してしまうということを意味する。
この主人は自分の財産を僕たちに預けました。託しました。任せました。僕たちを信頼したのです。そして、5タラントン預かった僕と2タラントン預かった僕は、その信頼に喜んで応えました。「主よ、あなたが私に預けた5タラントンです」「主よ、あなたがた私に預けた2タラントンです」。彼らは、主人が自分たちを信頼して預けてくださったことを受けとめた。だから、それを大胆に用いてもうけを生み出すことができました。
ところが1タラントンの僕はそうではありません。預かったタラントンに対する彼の言動を見るとその特徴がはっきりと表れています。(18節)「しかし、1タラントン受け取った者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠した。」(25節)「恐ろしくなり、出ていって、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。ご覧ください。これがあなたのお金です。」ここで気付くことは、主人の金、あなたのタラントン、あなたのお金と、何度も「これはご主人様のもの」だと強調しているということです。これはあなたものです、あなたのお金です。そう繰り返しています。一方では、確かにそうです。私たちが持っているものはすべて神のものであって、私たちがそれを私物化して自分のためだけに使うのは間違っているでしょう。しかし他方で、それは神が預けてくださっているものです。私たちを信頼して託してくださった。しっかり管理して、大胆に使ってほしい、と。しかし彼はそれを受けとめず、「あなたのもの」ということにこだわりました。なぜでしょう。
それは、彼の主人に対するイメージに理由があります。(24節)「ご主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり…。」ご主人様、私はあなたが厳しい方だと知っているのです。だから、そんなあなたが恐ろしいから、土の中に埋めておくしかありませんでした。このお金は蒔かない所からも借り入れる厳しいあなたのもの。なくしたらたいへんです。失敗したら責任をとりきれません…。
しかし、本当はそうではありません。この主人であるイエス・キリストはそのような残酷で無慈悲な方ではありません。何よりも先に主イエスご自身が私たちを信頼して、ご自分の宝を預けてくださったのです。あなたを信頼する私を信頼してほしい、と主イエスは私たちに訴えかけているのです。
Ⅳ. 外の暗闇
ところがこの話は最後がまた厳しい。「この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」あまりにも救いがない話のように思われます。
この譬え話を読むときに決して忘れてはならないことがあります。それは、これを話されたのが主イエス・キリストご自身であるという事実です。これを話してほんの2,3日で、主イエスは十字架につけられることになります。これは主イエスが十字架を目前にしてなさった説教です。ほんの僅かな時間をおいて、主イエスはユダに引き渡されて捕らえられ、十字架にかけられ、死んで葬られ、陰府に降って行かれました。僕が追い出された外の暗闇は、主イエスが降って行かれた陰府そのものです。主イエスはまるで1タラントンの僕の後を追うようにして十字架にかけられ、陰府に降って行かれました。
その事実に気付いたとき、この僕のあの言葉の隠された意味に気付きます。「ご主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める厳しい方だと知っていました」と彼は言います。確かに、キリストが厳しい方だというのは誤解です。しかし、「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める」というのは、必ずしも誤解とは言えません。この譬え話の中で、実際に預かったタラントンを活用してもうけを出したのは、5タラントンと2タラントンの僕たちです。主人ではない。主人は蒔いてもいないし散らしてもいない。蒔くためのものはすべて僕たちに委ねてしまいました。後の実りは全部僕に任せて、彼らを信頼して実りを待つ。主人はご自分が蒔いたのではない実りを刈り取って楽しみます。その実りについても彼らを信頼しているからです。蒔かない所から刈り取るのは、主人が厳しいからではなく、完全に僕を信頼しているからです。
この主人であるキリストを私たちも信頼しましょう。安心して信頼しましょう。この方は私たちを信頼してご自分の宝を預けてくださる方です。この方は私たちが泣いて歯ぎしりするしかない暗闇に出てきて私たちを救い出してくださる方です。愛と慈しみに満ちた御方なのです。
お祈りします。
