人生の持ち時間
<敬老感謝礼拝> 松本雅弘牧師 説教要約
詩編90編1-12節
ルカによる福音書2章22-35節
2023年9月17日
Ⅰ. 歳を重ねることについて
私たち高座教会では、毎年この時期に、敬老感謝礼拝を捧げますが、歳を重ねることを聖書から、神さまの視点でとらえ直すことに敬老感謝礼拝の意義があるように思うのです。そして、敬愛する信仰の先輩、人生の先輩が、これからも健やかに、与えられた信仰の旅路をまっとうすることができるように、祝福を祈り求めることをしています。
Ⅱ. 主イエスを迎えたシメオン
今日、敬老感謝礼拝のために選びました、この聖書の箇所には、誕生されて間もないイエスさまが、両親に抱かれてお宮参りした時、ちょうどそこに居あわせたシメオンという年を重ねたユダヤ人が、幼子イエスと出会った、その時の様子を伝えています。
これを書いた福音書記者のルカは、シメオンという人物が、イエスとまみえることを、心から待ち望んでいたことを伝えています。そしてやっとお会いすることができた時、彼の口から喜びと感謝がこぼれ出た。それが、「主よ、今こそあなたはお言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。」という言葉でした。実はそのシメオン、彼は聖霊によって「メシアを見るまでは死ぬことはない」というお告げを受けていました。ただ考えて見ますと、これはとても不思議で特別なお告げのように思います。
「メシアを見るまでは死ぬことはない」とは「メシアを見るまでは死ねない」ということで、もっと言えば、「メシアと会う時は死ぬ時」とも読めるわけで、ある意味、シメオンの死の時期を予告するような内容です。
そのシメオンが、ヨセフとマリアに抱かれてやって来た、赤ちゃんイエスさまを見た時に、神の霊に導かれ、その子が「救い主」であることを認め、先ほどの祈りを捧げました。そして本当に不思議なのですが、自分の死ぬ時がいよいよやって来たことを悟り、肩を落とした、がっかりしたのではありません。そうではなく逆に、感謝と喜びに満ちて神を賛美したのです。
Ⅲ. 人生の持ち時間
現在、日本人の平均寿命は男性で81.05歳、女性は87.09歳だそうです。ただこれはあくまでも平均寿命ですので、今日の箇所を見ますと、人それぞれに、神さまがお定めになった人生の時があるように思います。ただ誰ひとり自分に与えられている「人生の持ち時間」の正確な長さを知ることは出来ないということも確かなことです。
先日、クリスチャン・カウンセラーの藤掛明先生が書かれた『人生の後半戦とメンタルヘルス』という冊子を手にしました。その中に、「人生の時計」という言葉が出てきました。
「ある小学校の先生が、中学校を卒業するかつての教え子に向けて「人生時計」という話をしました。人生時計の起源です。そこで、その先生が話した人生時計とは、自分が人生のどこにいるかを、一日24時間の時間で考えるというアイデアでした。そしてそのための計算はいたって簡単で、自分の年齢を3で割るというものでした。
たとえば15歳の中学三年生は、3で割ると5になります。5は、人生の午前5時にいると考えます。まだ夜明け前の、長い一日のスタート地点にいるのです。校長先生は、巣立っていく卒業生たちに、人生まだ始まったばかりであることを伝えたかったのだと思います。
18歳の場合ならどうでしょうか。3で割って、午前6時です。やはりまだ早朝です。いくらでも人生に時間があります。
それでは、20歳ならどうでしょうか。3で割ると、6で残りが2です。余りは1につき20分になりますので、余り2ですと40分です。6余り2は、午前6時40分ということになります。
さらに太陽は上昇し、頂点を目指していきます。真昼時(午前12時)は何歳でしょうか。36歳ですね。いうなれば、人は、35、36を目指して、人生の午前中を過ごしていると言えるかもしれません。なんとかこれでやっていけるという自分を作っているのです。やがて真昼時という折り返し地点を通過すると、人生の午後、人生の後半戦に入ります。撤退や断念もあれば、人生の後半戦ならではの充実感もあるでしょう。そして50を過ぎるようになると、夕暮れが訪れ、日没が迫ってきます。そして夜になると、夕飯があったり、入浴があったりするでしょうし、お楽しみのテレビ番組があったり、日記を書いたり、本を読んだり、人によっては様々でしょうが、一日(人生)を振り返り、気持ちを穏やかにして、良い眠りにつこうとします。
あなたの人生時計はいま何時でしょうか。その時刻に普段はどんなことをしているか思い巡らしてみることをお勧めします。…」
私は現在64歳ですから、午後9時20分でした。もうそろそろ寝る準備に入る時間帯です。〈もうそんな時間になっていたのか〉とがっかりする以上に、何か大切なことに気づかされたようにも思うのです。私にとっては、来年の3月末で高座教会を離任するという節目を迎えようとしていますので、その冊子を読みながら、自分の歩みを「人生時計」に当てはめ、さらに山登りのイメージを重ねるだけで、様々なことに気づかされ大変有益でした。
ところで、今日の11時礼拝では、新たに75歳になられた方のお祝いのときも持たせていただくのですが、「人生時計」を当てはめた場合、実は、72歳で24時を迎えてしまうことが分かりました。では、七二歳以上の方はどう考えたらよいのか。とくに敬老感謝礼拝の対象となる方々が立っておられる地点をどのようにとらえているのでしょう。この点について冊子にはこう書かれていました。
「この人生時計は、72歳で24時を迎えます。72歳以上の方はどう考えればよいのでしょうか。たとえば84歳の方は、3で割ると28ですから、28時(午前4時)と考え、24時以降の時間を神さまから特別に与えられたものとして味わうのが良いと思います。それは、静まりかえった時間かもしれませんし、綺麗な朝明けを待ち望む時間からもしれません。新聞配達の音が聞こえたり、自然のざわめきや野鳥の声が聞こえたりもします。そこでは、幼児のように自分の人生を新たに味わう喜びが待っています。」何かこれも素晴らしい時間のように思うのです。
Ⅳ. 人生という舟に主イエスを迎え入れる
ところで、聖書には朝方でも日中でもなく、夕暮れから始まる物語が幾つかあります。その一つは弟子たちが主イエスに強いられて舟に乗って、湖の対岸に向かって出かけていくという物語です。先週の箇所、「五千人の給食」の出来事の直後です。並行個所をマルコ福音書で読んでみますと次のように書かれています。
「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間にご自分は群衆を解散させられた。夕方になった頃、舟は湖の真ん中に出ており、イエスだけが陸地におられた。」(マルコ6:45、47)
主イエスが不在のところで、弟子たちは舟をこぎあぐんでいた。しかも聖書によればそうした状態が、「夜明け頃」(48)まで続いたことが分かります。「夜明け頃」と訳されているギリシャ語は、直訳すると「第四の夜回り」という言葉で、午前3時から6時の時間帯を指す言葉なのです。「人生時計」を当てはめるならば80前半から90代と言えるかもしれません。
この時、弟子たちは主イエスに強いられて向こう岸に渡ることになったのです。時に、私たちも同じようなことを経験するでしょう。自分が言い出したのではないのに問題にぶつかる。成り行きというか、他から強いられて進んだ結果、厳しい状況に直面する。場合によっては死と隣り合わせのような、そんな物語としても心に響くわけです。
弟子たちは前日、五つのパンと二匹の魚で多くの人々を祝福する奇跡を経験していましたから、もしかしたらそんなことが再び起こることを期待していたかもしれませんが、なかなかそれが起こらない。ただ、注目したいのは、この時、弟子たちがしたことです。そうです、自分たちの舟に主イエスをお迎えすることでした。
聖書によれば、私たちは天国に向けての旅人、言わば、巡礼者同士です。それぞれのペースで天国への旅をしています。決して速さを競い合っているのではないのです。ゴールに着いて主と直接まみえる日を待ち望みつつ、先に天に召された、愛する家族や親しい仲間たちとの再会を楽しみにしながら、巡礼の旅を味わい歩むのです。
先週の日曜日、教会員のO姉が召され、木曜日に葬礼拝が行われました。長い間、ご夫妻でバプテスト教会の牧師をされ、夫を亡くされた後、しばらくしてちょうど74歳の時に高座教会に転会して来られました。74歳と言いますと、ちょうど午前0時40分の時間帯です。
葬儀のときにもお話したのですが、O先生はお連れ合いが召された時のことを時々お話してくださいました。「じゃまたね、と言って、スッと行ってしまった。」
また葬儀に際して、ある教会員の方から教えていただいたのですが、O姉はよく「私は あちらを 実家だと思ってますから、だから 帰るんですよ。その時は、じゃまたね、って、そちらに行くんですよ」と話しておられたというのです。
確かに物すごく聖書的な考え方だと思わされました。そしてもう一つ、私たちが天に引っ越しをした時、そこには、もう一つの楽しみが待っています。ヨハネの黙示録を見ますと、ゴールにおいて、神は、私たちそれぞれに新しい名を用意して待っておられると書かれているのをご存じでしょうか。
「耳のある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほか誰も知らない新しい名が記されている。」(黙示録2:17)
「名前」、それはその人にだけ与えられるものです。そうした歩みがゴールで用意されているということは、実は、この地上でのクリスチャン生活、天国に向けての巡礼の歩み、新しい名にふさわしい正体へと信仰の成長をいただくためのプロセスなのです。
聖書によれば、あちらに引っ越した時、私たちは新しい名をいただく。キリストに似た松本雅弘に変えられる。小石に記された新しい名をいただくということは、その名が表す新しい正体に変えられる、ということでしょう。
聖書によるならば、私たちの価値とは、その人が何を持っているか、何が出来るか、人が何と言っているかで決まるのではなく、一人ひとりは御子イエス・キリストの命と引き換えに神の子とされた尊い存在なのです。もちろん、旅の最後には多少疲れも出て来ます。身体的な色々な部分で傷んでくるでしょう。しかし、最後、死を通して復活のキリストと同じように、新しい体に甦(よみがえ)る時に、そこにあってすべてが新しくなることを覚えたいと思うのです。ですから、不都合なことはもう少しの辛抱なのでしょう。
私たちは幾つであったとしても、一人ひとりに与えられている人生の持ち時間、その中で、神さまが私を私として完成へと導いてくださっていることを信じ、そのお方を私たちの人生という舟の中にお迎えすることが本当に幸いであることを覚えたいと思います。
お祈りします。