狭い門から入りなさい
<春の歓迎礼拝> 和田一郎副牧師 説教要約
箴言3章5-8節
マタイによる福音書7章13、14節
2023年4月30日
Ⅰ. そこを潜り抜けると新しい景色
川端康成の小説『雪国』の冒頭の文章は「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった」。長いトンネルは暗かったと思います。ようやく暗闇のトンネルから出ると、辺り一面雪景色。潜り抜けると、まったく違う世界に来たようでした。今日はイエス様が教えてくださった「狭い門」から入ると、それまでとは違った新しい景色が見えてくるという話です。
狭い門は、その言葉の通り入り口が狭いということです。入り口が小さいので、目立たなくて気づかれません。14節でイエス様は「だから、それを見出す者は少ない」と言われています。それは、大きさが小さいだけではなく、一見して魅力のない門だからです。魅力的ではないのですが、それに続く細い道は、「命に通じる」というのです。一方で、大きい門は「滅びに至る」とおっしゃいました。大きな門は、見た目にも立派で目立つので、入り易い門です。どこか気持ちも大きくなります。しかし、あえて「狭い門から」とおっしゃった。その「狭い門」とはイエス様のことです。
イエス様は、人を癒し神様のことを告げ知らせてくださいましたが、最後は罪人として十字架にかかられた、一見して魅力的ではない生涯でした。
お金持ちが、神の国に入ることは難しいと聖書が語るように、財産が邪魔をしたり、自信満々で高ぶった心をもつ人は入りにくいのが、狭い門です。イエス様という門を潜ろうとするならば、私たちは一旦すべてを捨てなければ、入ることができないでしょう。なぜならば、私たちが与えられているものは、すべて神様から預けられているものだからです。本当の意味で、私たちは何一つ所有してません。命、財産、自分の賜物、家族もそうです。神様からの預かりものだから自分勝手に扱ってはいけない。それを認めた時、私たちは謙遜になれます。イエス様という狭い門をくぐり、その先にある永遠の命に与ることができるのです。
Ⅱ. 二人の妻
今日は「狭い門」を作った人の話をしたいと思います。『千利休とその妻たち』(三浦綾子著)という本を読みました。千利休は戦国時代に新しい茶の湯を確立した人です。大阪・堺の有力な商人であり、茶人として豊臣秀吉に仕えた人です。千利休は二度結婚しました。先妻の「お稲」という女性は、自分が武士の家の出身であることを誇りとしており、息子には「父のようになってはいけませぬ」という女性でした。お稲が尊敬していた実家の兄は、ある武将に殺されてしまうのですが、その相手を最期まで恨み続けて病気で死んでいくのです。一方で、利休の二人目の妻は、慎み深い「おりき」という女性でした。利休との間に生まれた二人の男の子は病死してしまいます。失意の中で耳にしたのがキリシタンの「復活」の話でした。その教えは「おりき」の心に刻まれて信仰をもつことになったのです。利休を信仰によって支え、先妻の残した子たちからも尊敬されるキリシタン女性として生きてゆきました。
さて、この二人の妻は狭い門に入れたのか。最初の妻は、武家の力と家を誇りにして、最後は人を恨んで死んでいった。抱えているものを捨てることができなかったのです。一方で、二人目の妻は、子どもを失ったことで、自分の力ではどうにもならない無力さを痛感した。何か大きな存在に委ねなければならなかった。自分の無力さをさらけ出して、すがるように委ねた先に、「狭い門から入りなさい」と招かれた女性だったのです。自分の力で入ったのではなく、神の一方的な愛によって招かれて迎え入れられたのです。
千利休は、妻、娘、弟子たちの多くがキリシタンでした。キリスト教の礼拝や信仰に関心をもっていて影響を受けたようです。ある時、利休はキリスト教のミサを見る機会がありました。ぶどう酒を入れた一つの杯を扱う所作がとても美しかった。そこで見たミサを参考にして、茶の湯の作法に取り入れたそうです。
Ⅲ. 「にじり口」という狭い門
利休が茶室を作る時にも、聖書の影響を受けており、それが「狭い門」の話でした。利休の妻が、その教えを利休に語ったのです。
「天国に人が入るためには、狭い門から入らねばならぬと伺いました。狭い門から入る為には、すべての持ち物を捨てねばなりません。身分という持ち物も、財産という持ち物も、傲慢という持ち物も、美形や学問という持ち物など、持っては入れぬ狭い門をくぐらねば、天国には入れぬと承りました。それらの荷は天国では何の役にも立ちませぬ。いいえ、そればかりか、かえって邪魔になる荷物だそうです」と。
利休は「天国に人が入るためには、狭い門から入らねばならぬ」という話にヒントを得て、茶室に「にじり口」を作ったのです。「にじり口」は茶室に入る小さな入り口です。武将であろうとも刀を帯刀しては小さなにじり口から入ることはできません。狭い門を入ったその先には、美しい掛け軸や花が飾られた床の間、温かなお湯が煮える釡の音などが五感に飛び込んできます。
また、利休は「天下人でも、一旦にじり口をくぐった後はすべて平等な人間になる」つまり、武士も商人も身分差がなく、同じように頭を下げて入り、茶室では皆平等に振舞われるということを表現しようとしました。まさに神の国を現わすような発想でした。
Ⅳ. 他力にゆだねる
イエス様は、「狭い門から入りなさい」と言いました。自分の身を小さくして、しがみついている物を置いて「謙遜」にならなければ、入ることができません。それは単なる処世術ではなく、自力のはかなさを知り、他力を信じて委ねるところに救いがあることを意味しています。おそらく、千利休もそれを、どこかで感じていながら、そこまで踏み切れなかったのではないでしょうか。忠実に仕えていた利休に対して秀吉は切腹を言いわたしたのです。明確な罪などなかったのに、まさに不条理な最期でした。不条理な扱いを受けるという経験は、利休に限ったことではありません。
コヘレトの言葉に「空の空、一切は空である。太陽の下、なされるあらゆる労苦は人に何の益をもたらすのか」(コヘレト1:2-4)があります。
この詩人が語るように、自分の知恵と力と視点で世の中を見れば、それは空の空です。しかし、その後に詩人は「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで、見きわめることができない」(コヘレト3:11 新改訳)と語っている。自分の知恵と力には虚しさを覚えるが、人の心に永遠という思いを与えられた。それでも神という存在を見極めることはできない。出来ないけれども「永遠」という神との関係が与えられているのです。その神という見えない存在がなさることは「美しい」のです。そこに委ねていい存在があると言うのです。神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお与えになる方です。ですから今日朗読した箴言3章5節では「心を尽くして主に信頼し自分の分別には頼るな」と教えるのです。主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
自分がしがみ付いているものに頼らないで、すべてを委ねるべき方に委ねていい、大いなる存在に委ねていい。自分の知恵や力では、どうにもならない。だめなものはだめ、できないことはできない、報われないものは報われない、だから、あなたにすべてお任せしますと、手放した時に「狭い門から入りなさい」と、まったく自分の力とは関係なく、神の憐みで招き入れてくださるのです。その狭い門を潜ってみると、新しい景色があります。本来の自分の道が真っすぐにされ、神様との美しい関係があるのです。その豊かさを味わっていただきたいと思います。
お祈りいたします。