夢を通して

松本雅弘牧師 説教要約
イザヤ書9章1-6節
マタイによる福音書1章18-25節
2023年12月10日

Ⅰ. 夢-困惑の中に

現代の心理学によれば、自分でも分かっていない心の奥深くにしまい込んである願い、心配、課題が、夢の中ではっきりと表れるのだと言われます。ここに登場するヨセフも夢を見たのです。それほどまでに彼は大きな悩みを抱え追い詰められていたからです。

Ⅱ. ヨセフが直面した危機

ヨセフは夢を見ました。彼が悩みを抱えていたからです。それは婚約相手のマリアがヨセフ自身、身に覚えのない子を身ごもった事実が判明したのです。マリアに対する愛情が深ければ深いほど、ヨセフは傷ついたでしょう。そうした中、19節の続きを見ますと、「マリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに離縁しようと決心した/縁を切ろうと決心した」と記されています。
当時の掟に従えば、ほぼ確実に死刑、婚約中の夫を裏切ったわけですから。ヨセフはマリアがそうなることを好みませんでした。たとえ自分自身、どんなにマリアを疑うことがあっても、マリアを死なせてはならない。そこで事実を隠して、ひそかに離縁をしようと考えたというのです。

Ⅲ. ヨセフへの召し

聖書学者の関根正雄が、次のように語っています。「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。…誰はばからず喋ることの出来る観念や思想や道徳や、そういうところで人間は、誰も神さまに会うことができない。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず自分だけで悩んでいる、恥じている、そこでしか人間は神さまに会うことができない。」
この言葉を読んで、〈本当にそうだな〉と思いました。真実な言葉だと思います。ヨセフもまさに、そこで神に出会ったのです。
神はそうしたヨセフに夢の中でお語りになりました。(20節)「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎えなさい」。言わば、マリアが産む子ども/身に覚えのないその子の父親になってくれるか、と。キリスト教の言葉を使えば、「召命」です。神さまが天使を通してヨセフに頼んでおられるのです。
この招きにヨセフはどう応えたでしょう。(24節)「ヨセフは目覚めて起きると、主の天使が命じたとおり、マリアを妻に迎えた。しかし、男の子が生まれるまで彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」
この後、ヨセフの歩みを見ます時に、神によって与えられたイエスの父親としての召命に一生懸命に生きていく、彼の姿を見るのです。
改めて思いますが、神さまは身の周りを強力な軍隊で守られて生きる権力者に御子を委ねたのではありませんでした。名も無き大工、何の力もないヨセフに「我が子を託します」と言って、赤ん坊の姿のままお委ねになった。
ヨセフにとって、イエスの父親になることは神の召命に応えること。見方を変えると、それは、神の協力者、神の同労者として生きることの決断でもありました。
でもこれはヨセフに限られたことではない。ある意味、私たちの人生にも当てはまるのではないでしょうか。そのことを指して、ある牧師は、「私たちもこのヨセフになることを求められている」と語っていましたが、一人ひとりに与えられた人間関係、もっと言えば、自分の性別や容姿や環境も含め、自分が好んで選んだのではない条件は、もしかしたら、私たちにとっての召命かもしれません。

Ⅳ. 神さまの招きに応答する

聖書を通してヨセフの人物像に迫る時、彼が登場する場面はごく僅かです。特にクリスマスに関連した場面以降、福音書から完全に姿を消していきます。ただ、ヨセフは自分に託されたイエスの父親として、マリアの夫としての大切な召命を、不平も言わずに引き受けていった。そうした姿に感銘を受けるのです。
羊飼いや博士たちが押しかけて来ても、決してヨセフは迷惑がりはしませんでした。むしろ、待ち望んできた救い主であるという息子イエスの誕生を、みんなと一緒に喜んでいます。息子イエスに対して、敬虔な信仰者として、きちんと旧約聖書で決められている通りに割礼を受けさせ、神殿参りをしています。そのようにして、親として神に対し、また息子に対する務めをしっかりと果たしています。
エジプトへ避難し、再びパレスチナに戻ってくる、あの大変な砂漠の旅にしても、聖書を読む限り、別段、大きな問題があったという記録を見つけることはできません。
ヨセフは、家族を不自由や危険な目に合わせないように父親としての務めを立派に果たしたのではないかと思います。そして何よりも、父親ヨセフの姿が息子イエスさまに大きな影響を与えて行きました。
「山上の説教」で主イエスは、「あなたがたの誰が、パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。」(7:9-10)と語っています。主イエスから見て父親ヨセフは、「パンを欲しがる自分の子どもに石を与え、魚を欲しがる子どもに蛇を与えるような父親ではない。」
主イエスが父なる神をお示しになる時、地上の父親という存在をもって紹介された。それは取りも直さず、地上の何者よりも父親ヨセフが、天の父なる神の義と愛を体現する者として幼いイエスさまの目に映っていたからでしょう。
私は、このテーマを考える時に、いつもクリスマスにまつわる1つのことが心に浮かびます。受胎告知の数か月前、洗礼者ヨハネの誕生が祭司ザカリアに伝えられた時の天使の言葉です。そこには主イエスの先駆けとして誕生する、後の洗礼者ヨハネがいったいどのような人物で、どういう働きをするのかが告げられるのですが、その中に「父の心を子に向けさせる」という恵みが起こると語られます。
そう言えば、旧約聖書は堕落後の罪の姿をカインがアベルを殺害するという「兄弟殺し」で始めます。人間の罪の姿を「家庭の崩壊」の中に見ているのが聖書です。その聖書が、旧約聖書の最後のマラキ書においてエリヤが再び来る時、「父の心が、子に向かう」ことで家庭に平和と喜びが回復すると預言するのです。
私たち親は、「子どもの心が父親である私の方に向かう」ことばかりを考えてしまいます。ところが聖書はまず親の心が子どもに向かい、次に初めて子どもの心が親に対して開かれていく。そのようにして本来の人間の姿が回復されていく。何を言いたいかと言えば、神の働きは、まず私から始まる、ということです。
私たちは、子どもが変るのが先だと考えます。周りの人々、相手の人が変って、その後に私が変わると考えます。でも神のお働きは、このように礼拝に来ている私、聖書を読み祈りの大切さを知っている私、洗礼を受けクリスチャンと呼ばれている、この私から始まる。この地域社会の回復は、まず神の民である私たち自身が取り扱われるところから始まる、それが福音のメッセージなのです。
ヨセフは立身出世をした人物ではありませんでした。英雄的存在でもない。ごく普通の大工さん、私たちと同じです。そうしたヨセフが神の御心を選択したが故に、主はヨセフを祝福し、ヨセフを通して大切な御業を推し進めてくださった。
「選択」ということを考えた時に、人生は日々小さな「選択」の連続、言いかえれば「小さな決心」の連続です。時には1つの選択によって、その後の人生が定まっていくだけでなく、家族や周囲の人々の人生にも大きな影響を与えることがあります。
ここでマタイ福音書が展開しているのは、一人の名もなき大工ヨセフの決心の物語です。しかし、実はもう1つの決心があったことを忘れてはならない。ヨセフの決心に先立つ「神さまの決心」です。
カール・バルトという神学者は、「神はイエス・キリストにおいて、永遠に罪人とともにあることを決意された」と語りました。
今日ご一緒に見てきたヨセフの決心も、実は、この神さまの決意を知り、その愛に圧倒されて、マリアと共に生きることを選んだゆえの決心だったように思います。
23節を見ますと、男の子の名はインマヌエルと呼ばれる、この名は「神は私たちと共におられる」という意味だと書かれています。
クリスマス、それは、神が私たちと共に生き、私たちを生かして用いようとされる神の愛の決心、「インマヌエルの決心」の出来事なのです。神の側で手を差し伸べてくださっている。私たちもその手を取って、神の同労者として招いてくださっている、その招きに応答するのです。
お祈りします。