星の光のふしぎな導きで
宮井岳彦牧師 説教要約
イザヤ書60章3-6節
マタイによる福音書2章1-12節
2023年12月17日
Ⅰ. クリスマスは夜の出来事
アドヴェント、待降節の三回目の日曜日を迎えています。キリスト教会にとっては特別な時期です。皆さんそれぞれに、アドヴェント、そしてクリスマスの思い出がおありでしょう。クリスマスに献げた礼拝、クリスマスに賛美した歌、クリスマスに信仰の友と語り合ったさまざまなこと。この2023年も、かけがえのない、ただ一度限りのクリスマスです。今私たちが過ごしているアドヴェントは、祈りつつクリスマスの祝いへの準備を重ねる、聖なる特別な時間です。
私が初めてキリスト教会に足を踏み入れたのは、高座教会の姉妹教会である希望が丘教会の附属めぐみ幼児園に入園したときでした。小さな園でした。毎年、園児たちによる降誕劇(ページェント)をしていました。年長組の時、私はヨセフの役でした。もう40年も前のことなのでうろ覚えですが、あの時の降誕劇の光景が私のクリスマスの原体験なのかも知れません。
思えば、クリスマスは夜の出来事です。飼い葉桶に寝かされたみどりごイエスさま。このとき、野宿をしながら羊の群れの番をしていた羊飼いたちのところへ天使が現れて言いました。「今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」(ルカ2:11)これは、夜の出来事です。真っ暗闇の中、主の栄光が羊飼いを照らしていました。闇夜に照らされた光の出来事です。
東方の博士たちが見つめていた星も、やはり夜空に光っていました。夜の闇の中で夜空に浮かぶ星の光から、新しい王の誕生の知らせを受け取りました。クリスマスは夜の闇の中に小さなロウソクが灯るようにして、私たちの光である方が宿ってくださった出来事です。
Ⅱ. 最近、星空をみつめていますか?
東方の博士たちが主イエスと出会ったのは、ヘロデという王がユダヤを支配している時代でした。この人は一体どういう人物だったのか。イスラエルの正当な王家の生まれというわけではありません。ローマ帝国の後ろ盾を得てユダヤを支配する王として君臨するに至ったようです。とても猜疑(さいぎ)心(しん)が強く、自分の王位の確立・保持のためであれば親族であっても手にかける人物であったそうです。
先ほど、クリスマスは夜の出来事と申しました。夜の闇の中に小さなロウソクの明かりが灯るようにして、クリスマスの出来事は起こった。小さな明かりです。それに比べて、ヘロデという人はまるで現代の都会に溢れる光の洪水のようだと思います。ヘロデは人間同士の営みの中でいかに勝ち抜いていくかを考えていました。どうやって成果を上げ、どうやって人に自分を認めさせるかに必死でした。その営みはネオンのようにあまりにもまぶしくて、小さなロウソクの明かりは見えなくなってしまいます。夜空に光っているはずの星の光が隠れてしまいます。
都会の光の洪水のようなヘロデの営みは、人間同士の力のぶつかり合いの営みです。大河ドラマの主人公になるような歴史の偉人たちも、誰も知らないような市井の私たちも、その点ではあまり変わらないのかなと思います。
東方の博士たちは、毎晩星を見つめる人たちでした。新共同訳聖書では「博士」という言葉を「占星術の学者」と翻訳していました。彼らは星を見つめていた。町の人々が寝ている時間、彼らだけは闇夜の星を見つめていたのです。
8月に夏休みを頂いて、静岡県の上井出に行きました。静かで暗い場所です。行く前から、息子が星を見たいと言っていました。家族皆でそれを楽しみに出発したのですが、初日は雨、次の日も厚い雲に覆われ、一向に星が見える気配がありません。上井出で過ごす最後の日も曇り空でした。その夜……先に床に就いていた息子が飛び出してきて、「星が見える!」と叫びました。外に出てみると、夜空には美しい星がちりばめられていました。明るい町を出て、闇夜の中に身を沈めなければ、星空は見えません。
博士たちは暗い夜に星を見つめていました。人間同士のぶつかり合いの営みから目を離して、星を見上げていました。皆さんは、最近、星空を見つめているでしょうか。自分の頑張りや気持ち、周囲の人の前での取り繕いのようなものが、都会のまばゆい光のようになって、私たちの目を遮(さえぎ)ってはいないでしょうか。私たちには、時に静かな闇夜の中に身を沈めることが必要なのではないでしょうか。
12月3日に高座教会では洗礼入会式が行われました。その当日は私はさがみ野教会でのご用がありましたから、高座教会の礼拝に出席することはできませんでした。しかし主事室の前のテーブルに、受洗者の証しが書かれた「地の塩」が置かれているのを見つけて、大喜びで頂きました。
本当に幸せな気持ちでそれを読みました。お一人おひとりに神さまはこうやって働きかけて、出会っておられるのか、と感動を禁じ得ませんでした。小さな頃から教会に通っていた方、ご家族を通して教会に導かれた方、いろいろな人との出会いを通して神さまの愛に招かれた方……。それぞれにふさわしい仕方で神さまは出会ってくださいます。
私は思います。博士たちを主イエスの元へ導いたあの星は、こうやって私たち一人ひとりにも輝き、私たちを導いているのだ、と。先日洗礼をお受けになった方たちのために、それぞれの星が輝いている。そして、皆さんお一人おひとりのためにも。
この星は小さくて弱い光を放っています。都会の光の中では隠れてしまいます。しかし、確かに光っている。闇夜の空に、ふしぎにあかく。あなたのために。あなたをイエス・キリストのもとへ導くために。
Ⅲ. 荒野の旅を導くもの
博士たちは東方からやって来ました。アラビア半島の東岸なのか、あるいは今のイラクの方なのか。いずれにしても、ユダヤにやって来るためには荒れ野を越えなければなりません。たいへんな旅だったと思います。食べ物に事欠くこともあったかもしれないし、追いはぎに出くわすこともあったかもしれません。そんな時には、もしかしたら、仲間内で喧嘩してしまうこともあったかもしれない。しかし、彼らは旅を続けることができた。なぜでしょうか。
荒れ野を越える旅。恐らくその旅は、夜の旅だったに違いない。昼間の暑さを物陰でしのぎ、夜になって陽が落ちてから旅をする。何より、夜になるとあの星が輝いている。彼らはこの旅に何度挫折しそうになったことでしょう。もうやめてやろうと繰り返し思ったに違いない。しかし、夜空を見上げるとあの星が光っている。だから、もう一度出発することができたのです。
Ⅳ. 黄金、乳香、没薬
遂に星が幼子のいる場所の上まで博士たちを導いてくれました。家に入ると、そこには幼子イエスと母マリアがいます。彼らは喜んで宝の箱を開け、黄金、乳香、没薬を献げました。
黄金、乳香、没薬というと、いかにも立派な献げ物のように思えます。しかし、一説によると彼らの占い師としての商売道具だったとも言われているようです。特にこの没薬ですが、当時はこれをインクに混ぜて呪詛(じゅそ)の言葉を書くために使うこともあったとどこかで読んだことがあります。そうすると、ずいぶんと物騒な贈り物とも言える気がします。
私たちが主イエスさまに差し上げられるものは、もしかしたらそういうものでしかないのかもしれません。私たちの持っているものは宝箱どころかゴミ箱みたいで、ガラクタしか入っていないのかもしれない。しかし主イエスさまはそんなゴミみたいなものも受け入れてくださいます。即ち、主イエスの御前に差し出した私たちの人生のまるごとを、この御方は受け取ってくださいます。「よく私の前にあなたの心の箱を開けてくれたね」と。
この御方へと導く星の光、神の光が、今日あなたをここへと導き出したのです。
お祈りします。