深い闇の底から泣き声が、あの人が泣いている

松本雅弘牧師 説教要約
<クリスマス礼拝>

エレミヤ書31章15-21節
マタイによる福音書2章13-23節
2023年12月24日

Ⅰ. クリスマスの恵みのなか1年を締めくくる

使徒ヨハネは、このクリスマスの出来事を「光は闇の中で輝いている」と表現しました。今年1年を振り返るとき、ある人にとっては苦しいこと、辛いこと、悲しいことが多く、まさに深い闇を行くような日々だったかもしれません。クリスマスの主イエス・キリストは「インマヌエル(神は私たちと共におられる)」という名で呼ばれるお方なので、私たちの生活の全ての領域に、実は主が共にいてくださった。信仰の目をもって見る時に、そこにインマヌエルの主がおられた。そこに光なる神を見出すことができるのではないでしょうか。

Ⅱ. 悲しみの中でのクリスマス

先週「博士の礼拝」の個所を読みました。そこには救い主イエスの誕生に際し、本来喜んでいいはずのユダヤの人々は無関心でいた中、救いの枠外と考えられていた異邦人の博士たちが大きな喜びに満たされ御子を礼拝したことが記されています。
「メシアはどこに生まれることになっているのか」というヘロデの質問に対して、「ユダヤのベツレヘムです」と即座に答え、それも預言者ミカの言葉を正確に引用しながら丁寧に説明できる人々ですら、〈これは一大事!私たちの救いの問題だから、東の国からやって来た、それも占いの教師たちなどに任せておくことなどできない。さあ、すぐに行きましょう〉と言って立ち上がってもよかったのですが、立ち上がることも動くこともしませんでした。喜んだのは、東からやって来た星占いの先生たちだけでした。
系図、ヨセフの葛藤、占星術の学者たちから得た情報によって、ヘロデ王の心に不安がよぎる。そしてイエスさまたちは危うく難を免れエジプトに向かいます。そして再び、ガリラヤのナザレへの引っ越しです。次から次へと困難と危険に襲われました。そして、どの出来事1つ取ってみても、幼子の成長にとってネガティブなものばかり。つまり、最初のクリスマスの出来事には、喜びや明るさよりも、悲しみや暗さの方が勝っていることを改めて知らされるのです。
いま、「悲しみや暗さ」という言葉を使いましたが、その理由は、私たち人間のイエスに対する拒絶にあったと思います。自分が自分の王様、自分が自分の主人として生きているのが私たちだから。王の王、主の主として来られたイエス・キリストを受け入れることに対して、物凄い抵抗感を覚える。それこそがクリスマスの出来事を記す福音書を彩る暗さ、悲しみの原因でしょう。ですから、「拒絶」という視点で、クリスマスにまつわる聖書の記述を読んで行くと、スゥーと読めて行きます。
生まれた時から、いや見方によってはマリアの胎の中に宿る時から、もうすでに幼子イエスに対する拒絶があった。特に誕生してからは、皆から拒否されています。エルサレムの人々をはじめ、律法学者や祭司長たちの主イエスの誕生の出来事への無関心、そしてヘロデに至っては、拒絶の究極である殺意です。幼子の命を抹殺しようと実行に移すのです。飼い葉桶と十字架は初めから1つだった、と改めて知らされるのです。
 本日の賛美礼拝でもクリスマスのページェントが行われますが、教会学校で生徒たちが聖誕劇をやる場合、誰が何の役をするかで、結構、もめると聞きます。女の子たちはマリアさんになりたいし、たぶん男の子たちの方は、誰がマリアになるかの方が、関心が強いでしょう。羊飼いや博士も人気のある役柄です。そうした中、最後までの決まらないのが、ヘロデ王の役だと言われます。大人でしたら割り切って演じることが出来るでしょうが、子どもたちはしたがらない。それ程までにヘロデは悪役、いや実際にヘロデがしたことは本当にひどいのです。ヘロデは、「ベツレヘムとその周辺一帯にいる二歳以下の男の子を、一人残らず殺した」のです。
そのヘロデが、持っている権力を目いっぱい行使して、国家権力をフルに使って、か弱い幼子を殺そうとした。ところが聖書は、主の天使がヨセフに現れ、エジプトに避難するように伝えた。たったそのことで、これほどまで残忍なヘロデの手から、幼子イエスは逃れることができたのだ、とも伝えています。そして、ヘロデが死ぬと、ガリラヤのナザレに導かれ、そこで成長することができた。このようにして、神は御子イエスを守られたのだ、とマタイは伝えています。

Ⅲ. ヨセフを支えた神の御手の確かさ

アドベントの期間、こうしてマタイ福音書を読んできましたが、今日の箇所においても、ヨセフの存在に心が留まるのではないでしょうか。確かに神によって幼子の命が守られるのですが、その神の手足となって働いたのがヨセフです。
聖書をお持ちの方は、マタイ福音書1章18節以下の箇所を開いていただきますと、例えば20節、21節で「マリアを妻に迎えなさい」、「その子をイエスと名付けなさい」と天使を通して示されますと、彼は「マリアを妻に迎え」、「その子をイエスと名付けた」と少し後の1章24節と25節に出て来ます。
しっかりと御言葉に従っていく。そうしたヨセフの姿勢が、今日箇所でも3度にわたって記されています。1つ目は2章13節と14節で、幼子を連れてエジプトに逃げ、そこにとどまったこと。2つ目は、20節と21節ですが、幼子を連れてイスラエルの地に帰ったことです。
そして最後3つ目ですが、22節と23節に出て来ます。ガリラヤのナザレへ行くようにとのお告げがあると、それに従って行動しています。
この関連で、私なんかは14節に心が止まりました。ここに「夜のうちに」という言葉が出て来る。夜の内に家族を連れてエジプトへと出発した。
御告げでは、「夜のうちに」とまでは語られていません。でもヨセフは夜のうちに行動を起こしたのです。つまり、御言葉に従う時に、そうした中で、自分が出来ることを一生懸命に選び取って行動しようとするヨセフの主体的な姿勢を読み取ることが出来ます。躊躇なく神に従う。愚直なまでに従うヨセフの姿です。これは同じ信仰者として学ぶところが大きいと思います。
ただ、そうだとしても、ここで決して忘れてはならないことがある。それは、こうしたヨセフを超えて、彼をもしっかりと守り導かれた神の存在、その導きの確かさがあったのだ、ということです。

Ⅳ. インマヌエルと呼ばれる主が共におられる

イザヤ書にこのよう御言葉があります。「私の手は短すぎて、贖い出すことができず/私には救い出す力がないと言うのか」(イザヤ50:2)、「そんなことはない」と神は言われるのです。
神の確かな御手、力強い確かな御腕が、この歴史を導き、私たち1人ひとりの上にも伸ばされている。その御手の導きの中で、ヨセフもマリアも、そして幼子イエスさまも守られたのだ。そして、今朝私たちが覚えたいのは、この私たち1人ひとりも例外ではないということなのです。
今年を振り返る時、いや、いままでも人生の歩みを顧みる時、そこには神の力強く、そして優しい御手の導きがあった。そのことを、信仰者である私たちは、感謝をもって告白することが許されているのです。
マタイは、そのことを、御子イエスの名が「インマヌエル/神は私たちと共におられる」と呼ばれる。そして、神がインマヌエル、神は我々と共におられるお方ならば、私たちの人生における全ての出来事、私たちの生活の全ての領域、そこにも主イエスが共にいてくださる。不意を突くような場面でも、実は神さまが共におられた。そのことを、私たちは信じ、期待して生きることが許されている。いや、もっと言えば、主イエスが共にいてくださるから、大丈夫だ、と私たちは聖書を通して、神から、そのようなメッセージをいただいているのです。
私たちは、その御言葉の約束を、信仰によって自分自身に結び付けるようにして聴かせていただきたいのです。
どのように激しい苦痛があっても、悲痛なことがあっても、神が主イエスにおいて私たちと共にいてくださる。だとすれば、神さまがご存じであり、万事が相働いて益となるように導いておられる、そう確信してよいということです。
インマヌエルと呼ばれる主イエス・キリストによって、そのような神との確かな結びつきが始まっています。来る2024年も、都エルサレムから主イエスを締めだしたユダヤ人のようにではなく、自分の心のお王座に主イエス・キリストを唯一の主としてお迎えして、主が始められた闇に光を灯す働きのために、それぞれの賜物に応じて用いられるものでありたいと願います。
お祈りします。