主と共に踏み出し歩む共同体をめざして
和田一郎副牧師 説教要約
民数記13章25-14章9節
2024年1月1日
Ⅰ. 節目があって、時がある
新しい年、2024年という年を迎えました。
1月1日という新しい年の最初の日に、みなさんは礼拝に来られたわけです。最近は大晦日とか元旦などは、あまり意識しなくなってきたようにも思います。元旦でもショッピングセンターは営業していますから、日常と変わりありません。年賀状を書く人も減っているようです。しかし、1月1日は特別な日だから、「いつもはあまり教会に行かない」という方も、新年礼拝は特別だから行く、という方も多くいらっしゃると思います。1年の最初の1日を、節目として大切にすることは、大事なことだと思います。これは元旦に限りませんが、時間や年月の節目を大切にすることは大切です。なぜかと言うと時間には限りがあるからです。いや、時間が無限に与えられているとしても、時間に節目をおくことは大切なことだと思うのです、それは神様から与えられている貴重な時間に意味を与えるからです。
旧約聖書、コヘレトの言葉に、時についての御言葉があります。
「天の下では、すべてに時機があり すべての出来事に時がある。生まれるに時があり、死ぬに時がある。植えるに時があり、抜くに時がある。」(コヘレトの言葉3章1-2節)
私たちが生まれた日は、いつでも良かったのではなく、時があったのです。種を植えるのもいつでも良いというものではない、時がある。その時とは神様の時です。神様のなさることは、時に適っていて麗しいのです。私たちの人生の時間は、限られています。その限られた時間を、漠然と何となく過ごしていると、いつの間にか時間だけが過ぎていきます。しかし、神様に与えられた時には、どのような恵みがあったのか、どのような試練があったのか、それは節目、節目を大切にすることで知ることができます。一日の終わりに日記を付けたり、一カ月を振り返ったり、一年の最初の日を大切にしたり、節目というのは、与えられた時の意味を知り、次の時の過ごし方に知恵を与えてくれるのです。今は土を耕せばいい、今度は種を蒔くことに専念しよう、すぐに花咲くことを求めないで、今は水をやる時、肥料を与える時でいいなどと、節目を置くのです。人生も振り返ると、あの時期は土を耕す時期だった、あの時に種を蒔いたな。では今年は何をするのか?節目を意識することによって、神の知恵を知ることができる、次への一歩の力が湧いてくるのです。
「神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた。だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない。」(コヘレト3章11節)
去年は去年で時に適ったことがあります、今年は今年で時に適ったことがある。神様はすべてを麗しく、時を与えて、私たちに生きる意味を与えてくださっています。
Ⅱ. 足の裏が踏むところ
今日、与えられた聖書の御言葉は、旧約聖書の民数記、今年の主題聖句です。この言葉は、モーセというリーダーによって、エジプトから逃れてきた数十万人もの民に向けられた言葉です。奴隷として苦しめられていたエジプトを脱出して、荒れ野を40年も旅をしなければならなかったイスラエルの民が、神様が約束して与えようとされたカナンという土地に向かっていた、そして、入る前に偵察しに行った時の話です。これから自分達が住むことになる土地が、どんな所なのか偵察隊を出して調べたのです。
偵察隊は12人いましたが、その中の二人ヨシュアとカレブは、あの土地は良い土地です。ぜひともカナンの地に入っていきましょう。必ず、それができるから、と報告した。一方、他の偵察員は、あそこに上ってはいけない。あそこに住んでいる民は強いからだ、というものでした。
民衆はどちらの意見を受け入れたでしょうか? そうです、人間というものはネガティブな意見に引き付けられます。神様の約束の地であるのに「自分たちのものには、とてもできない」という結論に傾いてしまいました。「エジプトへ帰ろう」「エジプトの方が良かった」と。実際は良くなかったのです、エジプトでは奴隷にされていたのですから、しかし、そのように言うのです。不安に直面すると、以前の方が良かったと言い出したのです。結局彼らは、安住の地を見る事なく荒れ野で生涯を終えることになりました。
ヨシュアとカレブ二人は、約束の地に入ることができた。それは、「私たちには主が共におられます」と、信仰によって、神様から与えられた良い土地を良い物として受け入れたからです。
約束の地カナンに入るためには、ヨルダン川を渡らなければなりませんでした。その時、「あなたがたの足の裏が踏むところを、ことごとくあなたがたに与える」と主は言われました。「約束の地を与える」と約束しておられましたが、実際にそれを手に入れ、自分のものとするには、具体的な行動が必要でした。実際に足の裏で、その土地を踏まなければならなかった。神様は、私たちに約束を与え、豊かな祝福を用意しておられます。しかしそれを現実に、自分のものとするには、主を信じ、踏み出して行かなければならない。
彼らがカナンの地に入る時、渡らなければならないヨルダン川の流れに、一歩踏み出した足の裏は渇いていた、というのです。川の流れは堰き止められて、彼らの目の前を流れていた川の流れは止まり、乾いて、その土の上を歩いて渡ることができました。
イスラエルの民が、荒れ野からカナンの地に入る出来事において「足の裏」という言葉は大切なキーワードになっています。「私はモーセに告げたとおり、あなたがたの足の裏が踏む所をことごとくあなたがたに与える。」(ヨシュア記1章3節)と主は言われたのです。私たちは「主が共におられる、恐れることはない。」この信仰をもって、足の裏を踏み出して行く所に、道は開けていきます。
Ⅲ. 祝福を受け取る
今年の3月末で松本先生が高座教会を退任され、私と、宮井岳彦牧師、二人の牧師による新しい牧会体制になります。まだ、未知数なことがあり不安もありますが、主が共におられる、そのことを忘れずに歩んで行きたいと思います。
今、2024年という新しい年、新しい時を主なる神様は与えてくださいました。今の社会を見渡すと、そこには確かに不安要素もあるのです、しかし、信仰をもってそれぞれ、お一人お一人に与えられた祝福を、一歩踏み出して受け取っていきたいと思うのです。
終わりに、使徒ペトロの言葉を分かち合って、新年礼拝の結びとしたいと思います。
「最後に言います。皆思いを一つにし、同情し合い、きょうだいを愛し、憐れみ深く、謙虚でありなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたからです。」(ペトロの手紙一3章8-9節)
今日、偶然ではなく、みなさんは、新年礼拝に招かれて来ました。「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたからです」。
お祈りいたします。