神が前もって準備してくださった善い行いに生きる
松本雅弘牧師 説教要約
出エジプト記3章1節―12節
使徒言行録7章22節―35節
2024年1月7日
Ⅰ. 出エジプト記、民数記、申命記から説教する理由
新年、あけましておめでとうございます。
今年の主題聖句は民数記14章9節の「私たちには主が共におられます」という御言葉で、ちょうど出エジプトをしたイスラエルの民が、約束の地に導かれていく時代を記録しているのが民数記です。ある意味で移行期を過ごす神の民に与えられたメッセージが「主が共におられる」という御言葉だったと思います。
確かに指導者のモーセがおり、ヨシュアやカレブも居たわけですが、誰よりも増して、主なる神がイスラエルの民と伴走される、そのことを決して忘れてはならない、というメッセージが、ここには込められているのだと思います。今日から3月まで5回にわたって、出エジプト記、民数記、そして申命記から、モーセの歩みに焦点を当て、モーセと共におられた主、その主のお働きや導きについて、ご一緒に学んでまいりたいと思います。
Ⅱ. モーセの「タイムライン」―「お前は何者か」から「私は何者なのでしょう」への変化
使徒言行録7章でステファノは、その殉教に先だって、説教したのですが、その中でモーセの生涯に触れ、モーセは「40歳になったとき、…兄弟であるイスラエルの子らを訪ねてみようと思い立」った(23節)と語り、その40年後に、「シナイ山の荒れ野において、柴の燃える炎の中で、天使がモーセの前に現れ」た(30節)と、今日、お読みした出エジプト記3章に出てくる出来事を伝えています。
そしてモーセが40歳で、さらに80歳で経験した2つの出来事をステファノは、「人々が、『誰が、お前を監督や裁き人にしたのか』と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです」(35節)と総括しています。つまり、40年間の荒野の生活を通して、「お前は一体何者なのか」と周りからそのように問われたモーセが、神から召命を受けた時、「私は一体何者なのでしょう」と自問するモーセに変えられていったのだ、ということです。これはモーセにとっての大きな変化だと思うのです。
40歳まで、エジプトでファラオの暮らす宮殿において、王族の一員として生活していました。ステファノは、「エジプト人の知恵を尽くした教育を受け、言葉にも行いにも力ある者」となったと言い表しています。まさに王子として、当時の最高峰の学問に触れる機会に恵まれていたのがモーセです。
ところが、その後、荒野に逃亡し、40年間、羊飼いとして暮らした。この時の羊飼いとしての経験が、この後、出エジプトを導くに必要な具体的ノウハウを習得する機会となったのかもしれません。神さまは、そうしたモーセを召し、そのモーセを生涯かけて、ご自身のご栄光のために訓練の機会を提供し、育てていかれた。そして、こうした神さまの御取り扱いは、私たち高座教会に対しても、また私たち一人ひとりに対しても当てはまることだと思います。
小グループ活動の中で、「タイムライン」を書くようにお勧めします。その作業を通して、私たちは何を学ぶかと言えば、人生の節目節目において、いや日々の生活において、実は、神さまが私の人生に深い関心をもっておられ、愛をもって導こうとされていることを知らされる。その際にお読みするのが、エフェソ書2章10節の御言葉ですが、「私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです」とあります。私たちそれぞれに「善い行い/善い業/ユニークなミッション」を準備しておられるからです。
若い頃のモーセが、ヘブライ人というアイデンティティに目覚め、自らがリーダーであるとの自覚で振舞った際、周りの人たちはそうした彼を受け入れなかった。逆に「お前は一体何様なのか」と言って、そのモーセを拒絶しました。しかし40年にわたる荒野での羊飼いの生活を通し、出エジプト記3章11節では、「私は何者なのでしょう」と神に問い、自らの心に問いかけている。「お前は一体何様なのか」と周囲から問われたモーセが、「私は何者なのでしょう」と自らの心に問うている、神さまに尋ねている。これは大きな変化です。
Ⅲ. 「変化」を起こした神の導き
神さまというお方は、神ご自身が召した者たちを、その召しにふさわしく整えてくださる。私たちへの愛のゆえに決して手を抜きません。手を緩めないのです。そうした神さまの姿勢を知らされるのです。
出エジプト記3章11節以降を読み進めていきますと、出エジプトを導く指導者として、主なる神さまがモーセをお召になった、その召命をめぐって、主なる神とモーセのやり取りが始まります。ここを丁寧に読み進めていきますと、この中でモーセ自身の課題が取り扱われていくのです。神さまの招きに応答できないモーセに対し、主なる神は、「私はあなたと共にいる。これがあなたを遣わすしるしである」と言ってくださる(出エジプト3:12)。まさに今年の私たち高座教会の主題聖句そのものです。
それだけではありません。そのことを証明する3つのしるし、①蛇に変わる杖、②懐に入れると手が皮膚病になる、③血に変わるナイル川の水、の3つです。
この後の個所を読み進めていきますと、それまで忍耐をもってモーセの言い分を受け止めておられた神さまが、突如、モーセに向かって怒られる。それは最後の最後に、「ああ、主よ。どうか他の人をお遣わしください」とモーセが呟いた時でした。
しかしそれでも神さまは、そのかたくななモーセを退けることをせず、モーセに助け手、アロンをお与えになる。そしてそこで初めて、モーセは神からの召命を受け止め、動き始めるのです。
最初、主なる神さまがモーセに、「私が、あなたの口と共にあって、あなたと共にあって、行こう」(出エジプト4:12)とおっしゃった時、モーセは「行かない」と言ったのです。ところが「有能な仲間であるアロンを与える」と聞いた時に初めて、「はい、行きます」、もっと正確な言い方をすれば、「はい、行けます」と答えた。これがこの時の、信仰者モーセの課題だったのではないでしょうか。そして私たちの課題でもあるかと思います。
神さまを知らない。全知全能のそのお方をとことん見ていない。だから自信が湧いてこない。アロンの素晴らしさが見えても、神の偉大さに目が開かれていないのです。
勿論、神さまは私たちに対してアロンのような助け手を与えてくださいます。信仰生活は決して一人で送るものではありません。信仰共同体の中でみんなと共に歩んでいくのは大前提です。しかしそうではあったとしても、私に与えられている人生を助け手が代わって歩んではくれないのです。孤独かもしれない。でも祈りの中で私自身が神さまと直接やり取りしていく領域があるのです。
Ⅳ. 私に与えられた「召し」に生きるために
今日は二十歳のお祝いの礼拝でもあります。二十歳を迎えた方たち一人ひとりのために、神さまが備えておられる「善い行い」、人生がある。
聖書によれば神さまの方法は私たち、「人」です。人を通して働かれる。神さまは私たちを「前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造」り、生かしておられる。それが私たちに与えられた人生の目的、生きる意味です。
そしてお一人ひとり、その「善い行い」に生きることが出来るように、時宜にあった助け手を与えてくださる。神さまは、人との出会いや様々は出来事を通して必要な訓練をお与えになります。与えたり取り上げたりすることを通し、最終的にはご自身に拠り頼ませ、そのご計画の中、尊い器として私たちを用いようとされていることだと思います。
モーセのように、王宮で能力を磨くこと、そして羊飼いとして荒れ野で経験を積むことは大いに大事でしょう。でもそうした事柄が生かされ実を結ぶために、もっともっと心を留めなければならないこと、それは神さまとの徹底したやり取り、神さまと交わっていくこと、その結果、今日の5節に出てくる、履物を脱がされる経験なのです。エリザベス・バレット・ブラウニングはこんな詩を書いています。
「この地は天で満ちている/どの普通の柴も神の火で燃えている/しかし、それに気づく者だけが、履物を脱ぐ/他の者は、ただその周りに座り、木苺を摘む」
毎週の共同の礼拝において、そして日々の祈りの生活において、聖なる神に気づき、履物を脱ぐ経験をさせていただく、神さまとの出会いを経験していく。
神さまがさせようという御意志、ご目的がありますから、日々聞き続け、「御心がなりますように」と祈るだけではなく、その祈りに生きていく。
ぜひ、この新しい年も、そのように生きる私たちでありますように。
お祈りをいたします。