苦しみを通して

松本雅弘牧師 説教要約
出エジプト記6章28節-7章7節
ルカによる福音書19章1-10節
2024年1月14日

Ⅰ. 苦しみを通して神さまの器へと整えられていく

今日の聖書個所には、召命を受けとめたモーセを通し、主なる神さまが、その約束を実現していく様子が記されています。結論から言えば、困難や難しさを通して、神さまは私たちの信仰を成長させてくださるのです。

Ⅱ. 困難と祝福は一つ

出エジプト記を読み進めて来ますと、第4章から今日の第12章の直前まで、いかにファラオの心がかたくなになりモーセやアロンの言うことを聞かないか、ということが繰り返し語られています。
このような出来事に遭遇すると大変戸惑い、「なぜ、主なる神さまはファラオの心をかたくなにすると言われたのだろう。むしろ柔らかな心にして、イスラエルの民をすぐにでも解放するように導かれなかったのだろうか」と思うのではないでしょうか。
時に私たちも、〈洗礼を受けたのに、何でもっとスムーズに、毎日を送ることができないのだろうか〉。あるいは、〈神さまの招きに応えて信仰生活のスタートを切ったのに、前進どころか、なぜ度々、こうした問題や困難に直面するのだろう〉。こういった疑問が心のなかに浮かぶことがあるのではないでしょうか。
こうした心の中にある疑問に対して聖書は何を語っているのでしょうか。結論から申し上げれば、《私たちの考えで「問題」や「困難」をとり除き、避けてしまったら、結局、祝福の芽まで摘み取ってしまう》ということだと思うのです。
昨年の12月の初めに洗礼式、信仰告白式がありました。その時の「証し集」を読ませていただきますと、改めて一人ひとりが、さまざまなきっかけで教会に導かれたことが分かります。幼稚園を通して、教会を通して、家族を通して…。人さまざまです。
ある人は、悩みを抱えて教会の門をくぐります。そうしたことがあったので聖書を読み始め、教会に通い始める。主イエスを求めようと思うのです。
何を言いたいかと申しますと、そうした悩みや問題があったので教会に来ることが出来た。真剣になって聖書に向かうことが出来たということです。
勿論、導かれ方は人様々ですが、全く問題も悩みもなかったら、教会に来たでしょうか。あるいは私が抱えている問題が「全く別な方法」で解決されるならば、神さまとの出会いという私たちの人生にとって一番大切な出来事、つまり祝福の芽までも摘み取られてしまうことになります。
聖書を通して、自分自身の弱さや自分ではどうしようもない罪を知らされるので、その罪からの救いを真剣に求め、その結果として救い主なるイエスさまに出会う。イエスさまの十字架が、実は私のためであったことが分かり、心から感謝することができる。また本当に慰めが必要なので、「主よ!憐れんでください」と祈り、聖書に真剣に向かい合うことで、初めて「慰め主なる神さま」に出会う経験をいたします。言わば、私の足元が危い時に初めて、「岩なる主」を知って、そのお方の御言葉を土台とした歩みへと切り替わっていくのではないでしょうか。あくまでも一般論ではありますが、私たちは問題や悩みを通して、神さまと出会い、そこで神さまの恵みと祝福をいただくもののように思うのです。
だいぶ前のことですが、ある集会の始まりの時、長老が一箇所聖書を引用されました。私はその聖書の言葉を読んで、ハッとさせられる経験をしました。その御言葉は、コヘレトの言葉7章14節です。「幸せな日には幸せであれ。不幸な日にはこう考えよ。人が後に起こることを見極められないように神は両者を造られたのだ、と。」「幸せな日、不孝な日、そのどちらも、神さまが備えておられる」、もっと言うならば、「不幸な日、困難な日や出来事それ自体にも意味がある」ということでしょうか。
実は、このことが、今日、お読みしましたモーセに対する神さまの言葉を解く鍵になるのではないかと思うのです。確かにファラオは自分で心をかたくなにしたのです。しかし同時に聖書は「神さまがファラオをかたくなにされた」と、そのことについてそう書き表します。
今日は、この後、残された時間、「ファラオがかたくなにされた、あるいは、なった意味」について3つの視点から考えてみたいと思います。

Ⅲ. ファラオがかたくなにされた意味

まず、第1は、幸せな日、幸福な日、そのどちらも、神さまが備えておられるということ、言い換えれば、私にとって喜ばしい出来事だけではなく、困難や悩みをも、神さまは用いられる、ということです。
ただ、何で神さまは困難な出来事を許されるのかという問題があります。この点を考える上で、C.S.ルイスが『悲しみを見つめて』の中でこんなことを語っていました。
「人間が、答えられない質問をすることはできるだろうか。簡単にできるだろう。意味をなさないナンセンスな問いは、神にも答えようがない。たとえば、1マイルは何時間ですか?とか、黄色とは、四角ですか、丸ですか?とか。おそらく私たちが神に尋ねる問いの半分は、私たちが問う、偉大な神学的問い、形而上的問いの半分は、神の前にはこのようなナンセンスな問いなのだろう。」
ですから、仮に悪いことが起こったとしても、それは神さまの御支配のもとにあることであって、絶対に私たちは神さまの愛から引き離されることがないことだけは、私たちの側でしっかりと押さえておかなければならないと思うのです。これが第1のポイントです。
2つ目に注目したいのは、出エジプト記を注意深く読み進めていきますと、ここに1つの事柄が浮かび上がってきます。それは、ファラオがかたくなにならなければ、イスラエルの民の生活に「出エジプトへの準備」が始まらなかったということです。
今日、お読みしました出来事の後、10の災いがエジプトを襲い、その度にファラオは心をかたくなにしたことを皆様はご存じだと思います。そして最後に、あの決定的な過ぎ越しの出来事が起こりました。
ですから、この後、イスラエルの民はエジプトの民同様、10回にわたる神の奇跡と、その同じ回数、ファラオが心をかたくなにしますが、それも紅海の真っ二つに分かれた奇跡的な出来事でエジプト脱出が図られる。そうした多くの困難やそこからの救いを経験したにもかかわらず、実はこの後、荒野に導かれたイスラエルの民は、すぐに主なる神さまに向かって「玉ねぎが食べたい。ニラが食べたい。エジプトに居たときは肉があった。キュウリが食べたい」と呟いてしまう。自分の興味や関心、食べたい物、本当に自分勝手なのです。神さまに守られ導かれ、信仰の訓練を受けたりすることに全く関心がない。自分たちさえよければいいのです。
こう考えていきますと、主なる神さまは、「ファラオがかたくなになる」という、モーセやイスラエルの民にとっては本当に大変な試練だったわけですが、そうした試練や困難を通して彼らに祈ることを教えようとされたのではないでしょうか。主の御業を待ち望むことを経験させたかったのではないか。そして最終的に、私たちの願いや関心を超え、祈りを通して神が与えてくださることこそが、実は「最も良きもの」であることを経験させたかったのではないかと思うのです。
そして最後3つ目のことは、出エジプトの出来事に示された「福音による解放」ということです。出エジプト記第4章から10の災いが連続して起こります。その災いを目の当たりにしたエジプトの民は勿論、イスラエルの人々も、自分たちが本当に大事にしているもの、実際に私を支えているもの、すなわち、偶像が明らかにされ、その結果、主なる神さま以外のどんな物も結局は真の神さまの代わりにはならない。いざという時に頼りにならないことを知らされていきました。
ところで、主イエスは、ご自分が来られたことを、旧約聖書の「ヨベルの年の実現だ」と宣言されました。「教会のヨベル館」の「ヨベル」です。「ヨベルの年」とは負債が帳消しにされる出来事、分かりやすく言えば、借金が多い人ほど喜びが大きくなるという出来事です。だから「貧しい人々は幸いです」と主は語られたのです。
 10回もファラオがかたくなになったので、イスラエルの民は熱心に主に祈らざるを得なかった。その結果、祈ることを学びました。指導者モーセも、助け手アロンを頼るのではなく、むしろそのアロンと共に主なる神さまにより頼まざるを得なかったのです。
こうした極限状態の中で突然、道が開かれ、イスラエルの民はエジプトを脱出できたのです。聖書によれば、パンを焼いている暇もありません。しかも「頼まれて脱出する」なんて誰が考えたことでしょうか。どちらが奴隷で主人であるか分からないような状態です。奴隷であったイスラエルの民が、主人であるはずのエジプト人に乞われて出て行く。主客逆転。これが福音の恵みなのです。

Ⅳ. まとめ

この説教を準備しながら、あの有名な詩編23編を思い出したことであります。
「私を苦しめる者の前で/あなたは私に食卓を整えられる。私の頭に油を注ぎ/私の杯を満たされる。命あるかぎり/恵みと慈しみが私を追う。」(詩篇23:5-6)
これは詩人ダビデの実感です。そしてモーセやイスラエルの民が経験したことです。私たちがイエスさまを信じ、イエスさまにつながって行く時に、このことが起こる。
ですから、神さまを見上げましょう。そして問題にぶつかった時には、今まで以上に、主を見上げて、もっと強く主につながって行きたいと願います。そのことを通して、主は私たちをお育てくださるのです。
お祈りいたします。