真理はわたしたちを自由にする

和田一郎副牧師 説教要約
2024年1月28日
創世記26章1-6節
  ヨハネによる福音書8章31-36節

Ⅰ. 節目があって、時がある

 私は、かつて登山をしている時、山に入れば携帯電話が通じないので解放感がありました。しかし、現在は高い山の山頂でも電波が届くようになりスマートフォンを頼りに登るようになりました。昨年、登った山はたまたま電波が通じない所だったので不安になったのです。以前は、電波が通じないことで解放されて自由になった気がしたのに、今では不安を感じるようになってしまいました。

Ⅱ. ユダヤ人にとっての自由 

 今日のテーマは「自由」についてです。イエス様は、「真理はあなたがたを自由にする」と話されました。「ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた」とありますので信者を相手に話していることが分かります。「私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である」と言われましたが、あなた方はそうではないと見ておられた。それを察した彼らは不満がありました。自分達ユダヤ民族はアブラハムの子孫なのだから外国人とは身分が違う、自由という祝福を受けるに相応しい人間なのだという強い自負がありました。しかし、イエス様は、それは本当の自由ではないと言うのです。聖書における「自由」という言葉には「解放」という意味が含まれていて、囚われの状態から解放される「自由」という意味があります。

Ⅲ. 自由から逃亡した、たい焼きくん

 昔『およげ!たいやきくん』という歌がヒットしましたが、「もし店のおじさんが神様だったら」という話があります。タイ焼き君は、毎日鉄板の上で焼かれていました。自分を造ってくれた店の叔父さんは良い人でしたし、自分のことをよく知ってくれている。タイ焼き仲間は、つぶ餡、こし餡、カレーを入れたり、それぞれ個性的な仲間がいました。なんといっても屋台にいれば叔父さんが安全を守ってくれる。だけどある朝、店の叔父さんと喧嘩して、海に逃げ込んでしまいました。はじめて泳いだ海の底は、とっても気持ちの良いもので心が弾みましたし自由でした。しばらくすると寂しくなってきました。イワシの群れに出会った時、群れ全体が一体となって楽しそうです。次に大きな網で囲まれた「生けす」の中に住む魚と出会いました。毎日決まった時間に餌が与えられるらしい、自由はなさそうだけれど、何だか良いなと思いました。「生けす」の近くにいると、餌がはみ出してくることがあり、だんだん、その餌をあてにするようになりました。ある時パクっと食べた餌は釣りの餌でした。タイやきくんを釣り上げた人は、「美味しそうなタイやきだな!」と嬉しそうな顔をした。そこでタイやきくんは、ハッとして「そうか、やっぱりボクはタイ焼きだ、屋台のおじさんは、ボクを美味しくして誰かが喜んで食べてくれるように造ってくれたのだ」と感謝した。釣り人は美味しそうに食べました。という話です。
 自由があるというのは素晴らしいことです。しかし自由は孤独を感じさせます。孤独に陥った時、人は新しい「依存」と「従属」を求めるとある社会心理学者(E.フロム)は言います。
 今を生きる私たちは、昔に比べれば、ある意味自由を得ています。江戸時代のように侍の子は侍、農民の子は農民とだけに限らず、自由があります。しかし、自由があるにも関わらず、人と同じことをしようとするのです。美味しい店を選ぶときや、住みたい町を探す時は人気ランキングを見たりします。多数派の価値観に依存し従属しているのではないかと思うことがあります。自由になりたいと願い、自由を獲得していても、その自由の重荷から逃れて新しい依存と従属を求めるという性質が私たちの中にあるのではないでしょうか。

Ⅳ. 自由を妨げるもの 

 今の世界を見つめつつ、自由を阻害するものについて考えたいと思います。ある大学の神学部客員教授のインタビュー番組を見ました。「人は群れを作る性質がある、だからファシズムはなくならない」ということでした。人は一人でいるのは良くない、人は一人だけで生きることはできないと、神様に造られた私たち人間は、群れを作るという性質があります。自分達の群れは素晴らしいと思い、自分たちの群れは正しいと思う、やがて自分達の群れ以外は正しくない、正しくないから排除しようとして攻撃しようとする、これがいつの時代でも起こり得る、だからファシズムはなくならないと言うのです。ファシズムのように、自分たちの群れは正しいと絶対視して、他を排除することは、神様の視点で言えば罪です。それに囚われていれば罪の奴隷です。自由とは正反対です。「隣人を自分のように愛しなさい」。その言葉にとどまり従う時に、相手を排除しようとする囚われの心から解放されます。隣人を愛することによって自由を得るのです。
 ではそこに辿り着く鍵は何か?インタビューの中で、それは相手の「内在的論理」という行動原理を理解することだと話していました。相手の心に内在している価値観や善悪の基準、好き嫌いなどを知ることで、相手の行動原理を理解することができると言うのです。和解の道への一歩は、相手が何故そう思うのか、そう感じるのか、そのように行動するのか。相手の心に潜在している行動原理を知り、理解し、認めることが、隣人を愛する糧になると思わされました。

Ⅴ.自由への行動原理はキリストの御言葉 

 イエス様が話をしていた相手はユダヤ人という群れでした。自分達ユダヤ人は素晴らしいと誇っていたのです。創世記12章4節の言葉「地上のすべての国民はあなたの子孫によって祝福を受ける」。その「すべての国民」とは自分達ユダヤ人だと思っていたのです。ユダヤ人という群れは祝福される、ユダヤ人以外の群れは、そうではない、異邦人は汚れていると、自己中心的な理解をしていて、イエス様は、その思いに囚われているのは、罪の奴隷だと指摘したのです。その罪の奴隷から、解放することができるのはイエス・キリストこの方だけです。ユダヤ人と異邦人との間には、大きな壁がありました。群れと群れとの間には壁があります。何故なら人は群れに依存するからです。みんなが認めたルール、みんなが持っているもの、みんなが共感するものに囚われの身となって、依存してしまうのです。群れの外の人を排除して認めなくなるのです。
 「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ福音書14:6)。その言葉は、不確かなものへの依存から解放してくださる力があります。本当の意味で、すべての人へ祝福が来たる、それがキリストの福音、奴隷からの解放、本当の自由がそこにあるのです。
 私たちの行動原理は聖書の御言葉です。「私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である」とイエス様は言われました。「もし子があなたがたを自由にすれば、あなたがたは本当に自由になる」と宣言なさいました。自由への道はイエス・キリスト御自身であり、キリストのみことばによって、またご聖霊に従って生きるところにあります。いつも自分自身の罪深さを認めつつ、まことの自由を求めていきましょう。
 お祈りをいたします。