御言葉を信仰によって結び付ける

松本雅弘牧師 説教要約
民数記13章1-3節、17-20節、25-33節
ヘブライ人への手紙11章1-3節、27、28節
2024年2月4日

Ⅰ. はじめに

今日の民数記第13章は、イスラエルの民の出エジプトから1年を経過した時の出来事です。主は、カナンの地を与えるために、まずその地を偵察してきなさいという命令をお与えになり、それを受けたモーセが12の部族から1人ずつ偵察隊を招集し約束の地を偵察させます。そして務めを終えて帰って来た彼らが、約束の地の様子を報告する場面です。

Ⅱ. 信仰とは何か

ここでモーセは主なる神さまの命令に従い、12部族から1人ずつ選んだ者たちを偵察に遣わすにあたり、ほんとうに事細かに指示を与えているのが分かります。そのようにして派遣された12人が、40日間の偵察を終了し帰った来ました。すると偵察隊の中のヨシュアとカレブを除き、残りの10人は約束の地に行くことに異を唱えました。
ところで神さまは、偵察隊を派遣する以前に、「私がイスラエルの人々に与えようとしているカナンの地」と語っておられます。ところが、偵察隊の10名は、この約束の御言葉をもって物事を見ることをしませんでした。むしろ「御言葉は御言葉、生活は生活」といった生き方を選び取ったのだと思います。
ところで、今日の説教タイトルは「御言葉を信仰によって結び付ける」ですが、このことを考える上で、まず、「信仰」についてそれを教えるヘブライ人への手紙11章1節から3節を見てみたいと思います。
ここには「神の言葉」とは、目に見えないものですが、この「神の言葉によって、この世界が創造され」そして、「目に見える世界は、目に見えない神の言葉によって支えられていること」を見抜くべきだと語られています。すなわち信仰によって物事を見ていく。何故なら、「目に見える現実を背後にあって支えているのが神の言葉だからだ」と聖書は主張するからです。
先日、ジャクサの宇宙探査機が月面着陸に成功しました。科学者たちは自然や宇宙をまずはよく観察します。そして、そこに神さまの創造の秩序、一般的なものの言い方をすれば、「自然法則」ですが、そうした規則を発見し、その法則を数式で表し、さらに仮説を立て実験を繰り返していきます。そして発見した法則が確かであることを証明してくわけです。そのようにして宇宙探査機が月面に着陸するだいぶ前から、研究者たちの間では数字の計算の上で、月に宇宙船を飛ばし着陸させることに成功していたことでしょう。しかし様々な実験や失敗を繰り返し、忍耐強く取り組んだ結果、月に宇宙探査機を着陸させることに成功した。ある牧師は、こうした科学者の作業と信仰はどこか似ていると語っていました。
自然界の中にある「法則」は、信仰の世界に当てはめるならば、それは、「神さまの御言葉の約束」、あるいは「信仰生活の原則/基本」とも呼べるかもしれません。聖書を開きますと、そこには様々な導きの言葉、知恵の言葉が出て来ます。私たちは、そうした一つひとつの導きの言葉、教えの言葉によって、この世界を見ていくために、科学者が自然を通して見つけた秩序や法則を、実際に適用して生きるように、私たち信仰者は聖書を通して教えられた御言葉を、生活の中で働かせ、場合によっては試し、神さまの約束が確かであることを知らされ、さらに神さまを信頼する者へと引き上げられて行くのではないでしょうか。
今日の新約聖書の、ヘブライ人への手紙11章23節から「信仰によってモーセは」との書き出しで、実際にモーセが信仰を働かせて生きた姿が報告されています。その具体的な生き方が、「与えられる報いに目を向けていたからです」(26節)と語られ、目に見える世界ではなく、信仰によって「与えられる報い」、すなわち「御言葉の約束」から目を離さなかったのがモーセだったと語るのです。さらに、「信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを去りました。目に見えない方を見ているようにして、揺らぐことがなかったからです」(27節)とあります。モーセにとってファラオは恐ろしい存在でした。しかし目に見えるファラオではなく、目に見ることは出来ませんが、生きて実在される主なる神さまご自身を信仰の目をもってしっかりと見、そのお方から目をそらさなかった。そして「与えられる報いに目を向け」続けていったのです。そのようにして、現実の世界の中に神の御手による祝福を見ていきました。これがモーセの生き方でした。ですから「主イエスから目離さないでいなさい」というのです。御言葉の約束を信じ、御言葉を私たちの日々の生活に適用しなさい、というのです。

Ⅲ. 聖書が教える「不信仰」とは

さて、再び民数記13章に戻りますが、。ヨシュアとカレブを除く10人の偵察部隊の課題はどこにあったのかと言えば、それは御言葉と生活を切り離した点にありました。
ヘブライ書には、「わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです」(4:2、新共同)と書かれています。つまり、神の約束の御言葉を生活に結び付けるかどうかは信仰によるのだ、と言うのです。ですから信仰を働かさないこと、神の約束の御言葉を生活に結び付けないことを、聖書は、厳しい言葉ですが「不信仰」と呼びます。
聖書が語る「不信仰」とは、信仰がないということではありません。「不信仰」とは、世間の常識、あるいは私たちの考えで聖書の御言葉に制限を加えることです。もっと言えば、目に見える現実だけで聖書の言葉を制限することです。
一昨年の中会会議に、東京基督教大学の学長の山口陽一先生がご挨拶に来られました。山口先生はこの講壇に立ち、「いまや日本の教会は停滞期から衰退期に突入した」と語られ衝撃を受けたました。その背景の一つとしての「コロナ」が日本の教会、いや日本に限らず海外の教会に与えた影響の大きさに改めて向き合わされる時でした。しかし一方で、「この町には私の民が大勢いる」、「収穫は多いが働き手が少ないのだ」という御言葉を、実際、高座教会の私たちがどのように聴き、どう受け止めて生きるかが問われているように思うのです。
昨年の賛美礼拝にも教会員以外のこの街の方々がお見えになりました。高座みどり幼稚園の卒園者は5千人を超え、現在も200名の子どもたちが送られてきます。その背後にはご家庭があります。保護者の方たち、さらにお祖父ちゃん、お祖母ちゃんを加えるならば、潜在的な求道者の数は測りしれません。
目に見える現実を優先し、聖書の言葉が教えている内容を割り引いて聞いてしまいたい誘惑があります。自分の常識やその時の気分で、御言葉の約束を受け入れることに躊躇します。でも仮に科学者たちが自然の法則を割り引き、神の創造の原則を曲げる人たちだったらどうでしょうか。決して月に探査機を飛ばすことはできなかったと思います。
彼らは、神の創造の原則を変えることをせず、むしろ自然を観察し仮説を立て、粘り強く実験を繰り返し、創意工夫を加え、その結果、現実を変えていった。目に見える現実や私たちの常識、あるいはその時の気分で、神の御言葉、その約束を変え割り引いてはならないのです。では、見える現実、自分たちの常識を優先させた10人の偵察隊は、いったい何をどう見ていたのでしょう、反面教師的に見てみたいのですが、彼らは、その土地が、神が約束された乳と蜜の流れるよい地であることを見る代わりに、「民は強く、町は城壁に囲まれ、とても大きいのです」と語るように、民の強さ、大きさ、城壁の堅固さに目が行ってしまいました。さらに、「もう入り込む余地がない/もう手遅れ」という見方をし、挙げ句の果てに、「自分は駄目」と思ってしまったのです。確かにそうかもしれません。しかしそうだからこそ、主イエスが十字架にかかり、私たちのマイナスをプラスにする「大きなマイナス」となってくださった。私たちが弱い者だからこそ、逆に神に助けを求め、神さまがこの私を恵みで装ってくださり、不思議な仕方で私たちをも用いて下さる、これが福音なのです。

Ⅳ. 御言葉を信仰によって結び付ける

今年の教会の主題聖句は「私たちには主が共におられます」という御言葉です。しかし、実際の私たちは、神さまがいつも共におられる現実に生かされながらも、思い煩いや心配で心が一杯になってしまうことがよくあります。
でも、そのような時、主イエスがお語りくださった御言葉を思い出しましょう。主イエスは、そんな私たちに、空の鳥をよく見なさい、野の花がどう育つか注意してご覧なさい、と説かれました。その主の御言葉に従い、まずはこの肉眼でしっかりと空の鳥や野の花を観察する。種もまかず刈り入れもしていないのに養っておられる。栄華を極めたソロモン以上に小さな野の花に御心を留め装っておられる。そうした上で、今度は心の目をもって空の鳥や野の花の背後におられる、彼らを包み育て、支える神の優しく確かな御手を見るのです。
「日々のみことば」で書かせていただきました。主イエスが、弟子たちと舟に乗って向こう岸に渡ろうとなさった時、突風が起こり、舟が沈みかけてしまった。当然、弟子たちは慌てふためきました。しかし主イエスは平安のうちに眠っておられたのです。何故でしょう。目に見えませんが主イエスは父なる神を信頼し、そのお方を見ていたからです。
私たちには聖書が与えられている。その字面を追うだけでなく、また頭だけで理解するのでもなく、心に、そして腑に落とすようにして味わい、その御言葉を信仰によって私たちの日々の生活に結びつけて歩んでいきたいと願います。
お祈りします。