主なる神を仰ぎ見る
松本雅弘牧師 説教要約
民数記21章4-9節
ヨハネによる福音書3章10-16節
2024年2月11日
Ⅰ. はじめに
荒野での40年の生活の中には、本当に様々な出来事が次から次へと起こってきました。今日の箇所もそうです。イスラエルの民が不平不満をぶちまけた時に、神さまは蛇をイスラエルの民に送られた、と書かれています。私たちも、そうした困難な出来事に直面することを通して、実は、主なる神さまを仰ぎみる祝福にあずかることを、今日はこの聖書の箇所を通して、ご一緒に学んでいきたいと思うのです。
Ⅱ. ビジョンの喪失
今日の個所では、イスラエルの民が主なる神さまとモーセに反逆し「なぜ、私たちをエジプトから導き上ったのですか。この荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、私たちは、こんな粗末な食物が嫌になりました」(民数記21:5)と訴えています。こうした発言の背後に、目的意識の喪失があるように思います。
私たちは目的がなければ忍耐することは本当に難しい。何のために生きているのか、はっきりしなければ、人生そのものに我慢できなくなることがあります。私たちはクリスチャンですから、それを神さまに問う必要があると思うのです。出発のための出発ではなく、ある意味でゴールを見据えてのスタートである必要があるからでしょう。
このことは教会の活動にも当てはまるのではないでしょうか。私たち高座教会は、4月から新しい体制でスタートして行きます。コロナ下を抜け出し、「ポスト・コロナ/コロナ後」の時代がやってきました。今、小会では、4月以降の礼拝のあり方について話し合いをしています。礼拝の持ち方もコロナ前に戻そうとするわけですが、そもそも礼拝とは何かということを併せて問うことが求められているように思います。
出エジプトが起こったきっかけは、イスラエルの民がエジプトで奴隷として酷使され、そうした中で彼らは叫びをあげました。そして主なる神が彼らイスラエルの民の叫びを聞かれ、彼らをエジプトから解放されました。その際、主なる神さまはモーセをお召になり、ファラオのところに行って、「わたしの子(イスラエルの民)を去らせてわたしに仕えさせよ」(出エジプト記4:23、新共同訳)と告げるようにとお命じになっています。この「仕える」とは「礼拝する」という意味です。正に出エジプトの目的は、神さまを礼拝すること、イスラエルの民が礼拝の民として神を褒めたたえて生きることが、そもそもの出エジプトの目的だったわけです。
さらに、この時のイスラエルの民は「神の子としての自覚」が薄れていたと言えます。私たちは慈しみ深い主なる神さまに属する神の民であり、目の瞳のように愛されている神の子である。それ故に、私を本当に生かすものは「神の口から出る一つひとつの御言葉」である、ということ。言い換えれば、主なる神さまとの交わり、礼拝が私を生かす、という自覚です。
私たちクリスチャンにとって大切な問いは、そもそも、私は何者なのか、またそのために神さまの側でどんなことをして下さったか、と問いかけてみることです。こうした問いかけを通し信仰の目が開かれていく時、次第に物事の考え方が整理されていきます。すると当然、優先順位も変わり、結果的に生活や生き方そのものに必ず変化が起こって来るはずです。何を第一にすべきか、自然と整えられていくことでしょう。
Ⅲ. 試練を通して鍛えられる主なる神
ところで、モーセの召命を記す出エジプト記第3章を読む時、神さまは祈りを聞いてくださるお方であることがよく分かります。私の言い分や不平不満を真剣になって聞いてくださる。でも最近思うのですが最後のところで、「では、結局、あなたはどうしたいのか」と問われる。「あなたは私に従ってくれるのか」と問われるように思うのです。つまり私の献身が問われてくるのです。
この点が、はっきりしないと、結局、何年たっても私たちの信仰生活は堂々巡りが続くように思います。イスラエルの民も40年間、あの狭いシナイ半島を堂々巡りしました。でも出エジプトの目的は荒野を堂々巡りするためではありません。ゴールである約束の地に入り、そこで礼拝の民として生きることです。主イエスは、「熱いか、冷たいかであって欲しい」と言われました。私たちはその御言葉をもう一度思い出したいと思うのです。
ですから、このように考えて来いますと、私たちにとって本当に必要なことは神との出会いなのです。そのためには礼拝を大切にし、日々、聖書と祈りによって、神さまと親しく交わる時間を確保する必要が出てきます。それが本当に大切です。
この関連で5節を見ますと、「私たちは、この粗末な食物が嫌になりました」と言った彼らの訴えの言葉が記録されています。「この粗末な食物」って何のことでしょうか?そうです。「マナ」のことです。確かにマナは粗末と言えば粗末だったかもしれません。でも、それは神さまがお与えになった「天からのパン」でした。私たちは、「マナ」のような日常的な事柄を、「神が与えたもの」と受けとめるか、それとも「この粗末な食物」と受けとめるかが問われているのです。
私たちに当てはめるならば、このつまらない仕事と考えるのか、それとも、神が与えてくださった職場と考えるかという問題です。夫婦関係も、子どもとの関係においても同様です。妻や夫を「神が合わせてくださった相手」と受け止めるかという問題です。様々な課題を抱え、悩みの種は尽きないのですが、子どもたちを「神さまが預けてくださった尊い存在」と受け止めていくかどうかということでもあります。
ここに根本的な別れ道があるように思います。そしてこのことは、自分自身を見る時にも当てはまります。「この惨めでつまらない私」と見て日々過ごすか、それとも「神に愛され、キリストの尊い命と引き換えに宝とされた神の子」と自覚して生きるのか、ここに決定的な違いがあります。
このように見て来ますと、神さまが与えてくださったものであるということを受け止めていく時に、本当の満足と不思議さを経験するのではないでしょうか。
もう一度、民数記に戻りますが、彼らは荒野での生活を通して、困難な出来事が来るたびことに、困難なことを強いる神さま、同時に、その神さまの代弁者であるモーセに対して苦(にが)い思いが沸いていきました。この点について、聖書は次のように語ります。
「心が驕り、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出されたあなたの神、主を忘れないようにしなさい。この方は、炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広大で恐ろしい荒れ野を進ませ、あなたのために硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖も知らなかったマナを、荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめ、試みても、最後には、あなたを幸せにするためであった。」(申命記8:14-16)
神さまがなさることは、いつも良いことです。「それは(その理由は)、あなたを苦しめ、試みても、最後には、あなたを幸せにするためであった」と、ここにしっかりと書かれている通りです。しかし実際のイスラエルの民は困難な出来事を神との関係の中で受けとめることをしなかった。その結果、目に見える状況が一向に改善されない事ばかりに心が奪われてしまったのです。
Ⅳ. 主を仰ぎみる
では、こうしたイスラエルの民に対する神さまのお取り扱いは何だったのでしょうか。最後にこの点にふれて終わりにしますが、結論から言うと「青銅の蛇を仰ぎ見る」ことでした。そして主イエスは青銅の蛇がご自身を指していたこと語っておられます(ヨハネ3:14-16)。私たちは困難に直面するのですが、それを一身に受け止めてくださっているイエス・キリストの十字架を仰ぎ、そのお方に信頼するように導かれるのです。
面白いと思います。元々お願いしたのは「私たちの日常から蛇を退治してください」ということでした。ところが神さまは、蛇そのものを取り去ることはなさらなかった。勿論、そうなさることもあるでしょう。しかし、この時はそうなさらなかった。その代わりに与えられたのが青銅の蛇です。
神さまは、モーセに命じて青銅の蛇を作り、イスラエルの陣営の中で高く掲げ、全ての人がそれを見るようになさったのです。噛まれた者が、ただ目を上げて上げられた蛇を仰げば死に至る猛毒から癒されるようにされた。噛まれたら、先ずは自力で蛇の所までやってきて、それに触るようにお命じになったのではない。もしそうだとしたら誰も救われなかったでしょう。途中で毒が回り数歩も歩けなかったに違いない。
神さまがお求めになったのは頭を上げて、上げられた蛇を見ることだけであり、事実、それによって救われたのです。「やり直す」のでもない、私の側から救いを獲得するために、何かを積み重ねるのではないのです。モーセが荒れ野で蛇を上げたように、十字架の上に上げられた人の子を仰ぎ、信じることで生かされる。なぜなら、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」そう主イエスがおっしゃるからです。
主にある救いをいただくことで、神のご支配の中に移される。神の国を見る恵みの世界が開かれるのです。
お祈りいたします。