救いはここに!
宮井岳彦牧師 説教要約
申命記8章2、3節
マタイによる福音書4章1-11節
2024年2月18日
Ⅰ. この話の一体どこに私が登場するのか?
小さな頃から教会で育てて頂いた私にとって、今日の聖書の御言葉が伝えている「荒れ野の誘惑」の話は何回も聞いてきました。それだけではなく、牧師になってからは私自身が何度となくこの話をしてきました。そのようなことを考えるととても恥ずかしいことですが、正直に言って、私にはこの話がどうもよく分かりませんでした。いや、ストーリー自体はよく分かります。面白い話です。しかしやはりよく分からない。何が分からないかと言えば、自分との関わりが分からない。
主イエスは荒れ野で40日40夜の断食をなさって、それから悪魔の試みをお受けになりました。まずそのような断食は私にはとてもできない。自分とはかけ離れている。しかもその状態で悪魔を打ち破った。…すごい、とは思っても、自分とはあまりに違う存在でいらっしゃる方のお話、というような気がどこかでしてしまう。そもそも悪魔って何者なのか?しかしそんなふうに観客のように眺めていていいのでしょうか。事はそれで済むのでしょうか。
この一週間黙想を繰り返し、いろいろな文章の手助けもかりながら一つ教えられたことがあります。ここには私もしっかり登場しているということです。そうであるならば私はこの話の一体どこに登場しているのでしょう。
三つ目の試みで、悪魔は主イエスに自分にひれ伏して拝めと言います。それに対して主イエスは断乎としておっしゃった。「退け、サタン。」(10節)
同じ福音書の第16章にこのような話が出てくる。主イエスが、これからご自分が十字架にかけられて殺されるという話を初めてなさった。その時、シモン・ペトロがイエスを脇に連れ出して諫めました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」それに対して主イエスはたいへん厳しくおっしゃった。「サタン、引き下がれ。」
主イエスが荒れ野で戦っておられる悪魔とは一体何者なのか?それは、私自身なのではないか。私やペトロを支配する悪を、私自身に深く食い込む罪をじっと見つめながら、主イエスはこの私と戦っておられるのではないか。
Ⅱ. 「神の子なら、神の子らしくしてくださいよ」
悪魔は主イエスに対して言いました。「神の子なら」と。本当にあなたが神の子なら、神の子らしく振る舞えばいいではないですか、と悪魔は言います。これはよく分かる言葉です。教会に行くと、牧師が言います。「神さまはあなたを愛しています。」しかしそんな言葉だけを聞いても、どうも納得できない…。「本当にそうですか?本当にあなたは私を愛しておられるのですか?」私たちにはそう問いたくなることがあるのではないでしょうか。神さまが本当に私を愛しておられるのなら、それが納得できるようにしてほしい。愛に足ることをしてほしい。神の子らしく私を救ってほしい。
悪魔も同じように主イエスを試みたのです。神殿の端に主イエスを連れて行って言います「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」そう言ってそれらしい聖書の言葉まで引っ張り出してみせる。神があなたのために天使を遣わして守ってくださるはずですよね。聖書にそう書いてあるとおり、私たちが納得できる仕方で神の愛を証明してください。神の子なら、神の子らしく振る舞ってくださいよ。
これは私たちにもよく分かるのではないでしょうか。神殿から飛び降りるなどと大それたことはしなくても、自分にももっと分かる形で神の愛を見せてほしいと私たちだって願う。それで、もしも何かしら良い事があれば、「神は本当に生きておられた」と口走ることもあるかもしれません。ところが何も良い事がなければ、「こんな神なんて信じるに値しない」ということになる。神の愛なんてキレイなだけのむなしい言葉だということになりかねない。
しかし私たちの人間関係に置き換えたら、どうでしょうか。もしも夫婦の間で、「あなたが本当に私を愛しているなら、それを証明してください。私が納得したら、あなたの愛を信じます」などと言っていたとしたら、それはあまり良い関係とは言えないと思います。そのようなことをおいそれと口にすることはありません。しかし、相手が神さまになると、案外平気で似たようなことをしてはいないでしょうか?
Ⅲ. 「石をパンに変えるくらいしてくださいよ」
本当に神がおられるなら、本当にあなたが神の子なら、この石をパンに変えるくらいしてくれたって良いじゃないですか。そうしてくださらないというのは、私に関心がないからでしょうね。そんなふうに思ってしまうこともあるかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか?本当に主イエスはパンを食べなければ生きられない私たちの命に関心がないのでしょうか?
聖書を読むと、決してそのようなことはないとよく分かります。主イエスが私たちの食べることや飲むことをどうでもいいことだと、たったの一度だっておっしゃっていません。主イエスは喰わねば生きられない私たちの命を低俗だとはおっしゃらないのです。主イエスは、たった5つだけのパンとたった2匹の魚で、5000人を満腹にしてくださいました。そんなすばらしい奇蹟だって起こしてくださった。主イエスは私たちの空腹をよく知っておられる。
「人はパンだけで生きるものではなく、神の口からでる一つひとつの言葉で生きる。」主はそうおっしゃった。「パンはいらない」とはおっしゃっていない。パンだけでなく、神の言葉が必要だとおっしゃった。
神の言葉。聖書が伝える福音の言葉です。キリストの福音、つまり十字架の言葉がなければ私たちは生きられない。
Ⅳ. 神の子は十字架から降りてこない
「神の子なら飛び降りたらどうだ」と、神殿の端で悪魔は主イエスに言います。これも、とてもよく似た言葉がこの福音書を読み進めると登場します。主イエスが十字架にかけられたとき、そこを通りかかった人々が嘲って言いました。「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。(マタイ27:40)」主イエスは、十字架から降りないことで悪魔と戦われたのです。もしもイエスが神殿から飛び降りたら、悪魔の勝ち。もしも十字架から降りて来たら、悪魔の大勝利です。ところが主イエスは神殿から飛び降りず、十字架の上から降りて来ず、十字架の上で力なく死なれました。そうやってキリストはご自分ではなく私たちを救ってくださいました。神の子が十字架にかけられることなしに私たちが救われることは決してないのです。
主イエスはあなたを愛しておられます。繰り返します。主イエスは本当にあなたのことを愛しておられます。主イエスはどんなに試みられても、周囲から嘲られても、十字架から降りては来ません。キリストが十字架にかけられているお姿が神の愛そのものだからです。十字架に示された神の愛が私たちを救うからです。ここにあなたのための救いがあるからです。
Ⅴ. ただ神だけを礼拝しよう
説教壇や聖餐卓にかけられた布が紫に変わっています。14日の水曜日から、受難節(レント)に入りました。受難節は2000年間の教会の歴史の中でもかなり早い時期から覚えられています。
受難節はイースターの前、6つの日曜日を除いた40日間です。古代の教会では、この40日間を洗礼への備えの期間としていました。洗礼を志願する者たちは毎日集まって、司教に手を置いて祈ってもらいました。悪魔を追放するための祈りです。「退け、サタン」と祈りつつ、洗礼に向かう祈りの旅路を歩んだ。代々の教会は、神の愛を試みる私たちの悪を厳しく見据えていたのです。そしてそれと主イエスが戦ってくださって、打ち勝ってくださったことを深く覚えたのです。
やがて40日の祈りを終えると、イースターの前の晩から徹夜で祈り、やがて早朝を迎え、鶏が鳴く頃に洗礼が授けられました。この時には、受洗者自身が言ったそうです、「サタン、私はお前と、お前の一切の虚栄と、お前の一切の業を捨てる」と。そして悪魔ではなく神を礼拝する者として洗礼が授けられた。教会員の仲間たちは一人の人がキリストを礼拝する民に加えられたことを一緒に祝った。共に祈る仲間として迎え、共に神を礼拝しました。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」というキリストの招きに応えて。
私たちはただ神だけを拝み、キリストだけを礼拝します。ここに救いがあるからです。私たちには、それぞれに切実な祈りがあります。神さま、この痛みを、この苦しみを、どうか助けてください。私たちはそう祈る。そうです。祈って良いのです。喰っていくため、生きていくための祈りをキリストにぶつけていい。途中でやめてはダメです。他の何者かに祈るのではなく、神に祈り続ける。生きるために神に訴える。そうやって、私たちは神を礼拝します。ここに救いがあるのです。十字架から降りてこなかった方こそが私たちのための神の愛そのものなのですから。十字架にかけられたキリスト・イエスに示された神の愛から私たちを引き離すものは何一つない。どこにもない。そのことを信じ、私たちはただこの神のみを礼拝するのです。
お祈りします。