神の栄光のしるし

和田一郎副牧師 説教要約
2024年2月25日
出エジプト記4章1-12節
ヨハネによる福音書9章1-12節

Ⅰ. 暗闇の中へ

 家族と公園を歩いている時に息子が「あれ何だろう?」と防空壕を見つけて走りよりました。勇気を出して暗闇に一歩入って覗いてみると、戦争中に防空壕で作られていた戦闘機の模型が展示してあるのが見えました。外の明るい所にいると、中の暗い様子は見えにくいのですが、一歩暗い所に入ると、目が暗闇になれて見えてくるものがありました。心の目も同じで、心が明るい時には、世の中の暗い部分に目が行きにくいものです。しかし、イエス様は常に心に闇を抱えている人たちを見ていました。ご自分の心が明るい時でも、暗く差し迫った厳しい状況でも、人々の心の中の暗闇に、目を注いでおられました。今日は、生まれつき目の見えない人を通して、神の栄光という光を照らしてくださったイエス・キリストの話です。

Ⅱ.  救いの力に目を向ける

 今日の聖書箇所で、イエス様は差し迫った厳しい状況におられました。8章でイエス様はユダヤ人との問答でご自分がメシアであることを語り始めたので、それを認めないユダヤ人たちが、神を冒涜する者だと決めつけて石をとって殺そうとしたのです。イエス様は素早く神殿の境内から逃れて来た。そのように差し迫った状況にあった時、その通りすがりに生まれつき目の見えない人を見たのです。この生まれつき目の見えない人は、物乞いをして、人々から施しを受けないと生きていけない人でした。イエス様は彼を「見かけられた」と書かれています。見かけたというと、通りすがりにちょっと目に入った、というニュアンスです。しかし言語をそのまま訳せば「見た」という言葉ですから、ちょっと目に入ったというのではなくて、しっかりと物乞いの男のことを見つめられたのです。2節で弟子たちが「先生、この人が・・・」と、この目の見えない人に注目したのは、イエス様が、この人見つめて立ち止まったので、弟子たちもこの人に目を向けたのです。人々から施しを受けないと生きていけない、生まれつき目が見えない。まさに暗闇の中にいるような人であったのです。私たち人間は、このような人たちを見過ごしがちです。いろいろ忙しいのです、先に用事があるのです。そのような私たちにとって、暗い闇をもった人の心などは見えにくいのです。しかし、イエス様の眼差しは違ったのです。それを見た弟子たちは、(2節)「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と質問しました。当時は病気や障害をもった人は、罪を犯したことによって起こったのだ、と考えていたのです。罪の結果、罰として病気や障害に苦しむことになる、だからそうならないように罪を犯さないように気をつけよう、と信じられていました。でも、この人は生まれつきですから、この人が罪を犯したので目が見えなくなったのではない。そうすると、この人の両親が罪を犯したなのだろうか。弟子たちはそう思ったのです。弟子たちはその人の、目が見えなくなった原因に関心をもっていましたが、この人の苦しみや痛みに目を向けることができませんでした。ただ自分達の関心の対象として、その人のことを知りたいと思っていたのです。
今を生きる私たちは、何か悪いことをしたから病気や障害をもつとは思っていません。そうでないと病気や障害のある人への差別を生むことになります。当時の価値観とはいえ弟子たちの、このような先入観は当時の病人や障害を持つ人を苦しめていたでしょう。
その質問に対してイエス様は(3節)「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」とはっきり、おっしゃいました。そして「神の業がこの人に現れるためである」と言われるのです。この人が生まれた時から目が見えなかったのは「神の業がこの人に現れるため」とはどういうことでしょうか。神の業は、人の目が見えなくなったり、見えるようになったりさせる力がある、その大きな力があることを示すためということでしょうか。
いや、そうではなくイエス様によって、その人の目が見えるようになって帰って来た、その御業です。弟子たちと同じように、私たちは何でこの人が生まれながらに目が見えないという不条理な境遇になったのか、なぜ神様はそのようなことをされるのかと、苦難の原因にばかり目が行くのです。誰が、なぜ、そのようなことをしたのかと。しかし、その答えをもっている人はいませんし、人間が知り得ることではありません。たとえその原因が分かったとしても苦難や不条理はなくなりません、納得もできないでしょう。私たちは神を信頼する信仰者です。人間の領域以外に、神の領域があることを信じていますから、神の領域について分からないことを詮索しても意味のないことです。それよりもイエス様は、具体的に私たちに示してくださる、癒しの力、救いの力に目を向けさせようとされているのです。原因究明という過去への後ろ向きな目を、これから成され将来の希望に繋がる神の御業へ目を向けさせるのです。
イエス様は、地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目に塗り、洗うと見えるようになった、癒しの奇跡が起ったのです。土というのは何の価値もないものの象徴です。何もないところから、主は奇跡を起こされました。これが「神の業」「わたしをお遣わしになった方の業」です。その神の業によって、11節、彼は答えた「イエスという方が、土をこねて私の目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです」と証ししました。「生まれつき目が見えないという暗闇の中で苦しんでいたこの人は、キリストの光に照らされて目が見えるようになり、キリストを知り、キリストを信じた。その後の人生は変わったのです。

Ⅲ.  今やりなさい、夜が来る

 ところで、イエス様はこの「しるし」を行う前の4-5節で「私たちは、私をお遣わしになった方の業を、昼の間に行わねばならない。誰も働くことのできない夜が来る。私は、世にいる間、世の光である」とおっしゃいました。「昼」は、イエス様がこの地上におられた約3年の公生涯のことを現わしています。一方で「夜」はイエス様が地上を去られた後の時を表しています。ですからイエス様は、地上におられる公生涯の3年という神に定められた時間の中で、神の業である「しるし」を現わしていかなければならなかったのです。ですから「しるし」は、大勢の人が見ているところで、人々に知られている人物に成された。従ってエルサレムのユダヤ人たちはこの「しるし」を否定することができませんでした。
さらにこれは私たちにも当てはまります。4節で「私たちは、私をお遣わしになった方の業を、昼の間に行わねばならない」と、イエス様だけではなく「私たち」と呼び掛けているからです。私たちにとって昼とは、この地上の命がゆるされている期間です。生きている限り、神の業が私たちのこの身を通して行われるなら、どんなことでも喜んで神の業を現わさなければならないでしょう。私たちを通して、神の「しるし」、神の栄光が現わされるのならば、私たちが生まれてきたのは無駄ではなかったのです。私たちが生かされているのには意味があるのです。命のある限り、神の栄光を現わす機会があるならば、あまり悠長にはしていられないのです。なぜなら私たちの地上の生涯には限りがあるからです。そして、いつ、どんな業が、私たちを待っているのか分からないからです。イエス様は、ご自分の身に危険があるにも関わらず、通りすがりの道ばたで、心に闇を抱えた、目の不自由な人に目を留められました。私たちが生活するこの社会にも、そのような暗い闇があるのではないでしょうか。

Ⅳ. 神の栄光を照らす

 最近、私は叔母の所へ行く機会が増えました。叔母は生涯独身で90才を迎えても一人でしっかり生活してきたのですが、最近は一人で出来ない事が出てきたので呼ばれることが増えました。しかし行ってみると特に問題がないことがほとんどでした。しかし、一人で生活することに不安がでてきて、急遽、小さな施設に入居することになったのです。施設に入れば職員の人が対応してくれるから、ひと安心と思って幾日も経ってしまいました。しばらくして訪問すると、叔母は暗い表情を浮かべて「ここに居るのは辛い」「長生きなんてするものじゃないね」と言うのです。どのように答えたらいいのか、戸惑って思わず「祈ろう」と言いました。実はクリスチャンの叔母と、一緒に祈ったことがありませんでした。叔母の前で祈るということが気恥ずかしい思いがあったのです。人の心の深いところを知っておられ、私の面倒くさいという思いも知ってくださる神様に「光を照らしてください」と祈りました。叔母の目に涙が溢れていて私に「ありがとうございました」と言ってくれました。イエス様は「私は世にいる間、世の光である」とおっしゃいました。そして「私たちは、神の業を、昼の間に行わねばならない」と呼び掛けてくださっています。 ある牧師の言葉があります。
「あなたが愛している人のために愛の行為をしたいなら、今やりなさい。夜が来る。もしあなたがまだ悔い改めていないなら、もしあなたの救い主としてキリストを信じていないなら、今悔い改めなさい。夜が来る、夜が来てからでは悔い改めることができないからである」(C.E.マッカートニー)
今日という一日の中に、神の栄光を照らすことができるように、祈り求めていきましょう。