いつもあなたがたと共にいる
松本雅弘牧師 説教要約
申命記34章1-12節
ヘブライ人の手紙6章1-3節
2024年3月3日
Ⅰ. 最期に与えてくださる祝福
ご存知のようにモーセは、結局は約束の地に足を踏み入れることはできませんでした。しかし神が備えてくださった「走るべき道のりを走り終えた」という意味においてモーセは、なすべき務めをやり切って召されたと言ってもよいと思います。最終回の今日は、神さまが私たち一人ひとりのために用意してくださっている3つの恵みを中心に、御言葉を読んでいきたいと思います。
Ⅱ. ピスガの山頂に立つ経験-神さまの視点で過去、現在、未来を見る恵み
まず第1は「ピスガの山頂に立つ経験」、言い換えれば、「人間的な視野を越えて、神さまの視点から、聖書の約束に立って物事を見ていく恵み」について見てみましょう。
モーセは神が約束されたカナンの地に足を踏み入れることはできませんでした。しかし神さまは、モーセをピスガの頂に導き、まさに人生の最期に、その頂から、ご自身が約束された地をパノラマのように見せてくださったのです。
ところで日々の生活には、〈何故?!〉と思うようなことが次々と起こります。思い煩いの種は尽きません。その都度心が騒ぎ、心の中が不安や不満で一杯になってしまう。そしてふと顔を上げて周囲を見渡すと、信仰している者が信仰していない者と比べ、損をしているような現実に直面することさえあります。しかし、かえってそのような時にこそ、1つひとつの出来事を神さまの視点に立って、聖書が示す物の見方で受けとめていくことが、信仰者である私に問われているように思うのです。
この時のモーセは、結局は約束の地に入ることができなかったわけですから、〈これだけ苦労してきたのに、モーセも気の毒だったね…〉で終わってしまったかもしれません。しかし実際のモーセは違っていました。ロマ書に出てくる有名なパウロの言葉の通りに、「神を愛する者、すなわち、神のご計画にそって召された者たちにとって、万事を益としてくださることを知っています」という、そういう視点に立って、雑然とした、様々な出来事の中に、整然とする神の秩序と御心を見ることに努めた。神さまは、そのことを知らせるために、モーセをピスガの頂に導いたのではないでしょうか。
そしてそのためには、聖書という土台に立ち、神からの視点をいただかなければ、申命記以降のイスラエルの民に対する神のご計画の全容を見ることができなかったと思います。2月にお話しした、科学者のように、目に見えない世界の中に、神の秩序、慈しみ深い神さまの御手の御業を、御言葉のレンズを通し、信仰の目をもって見て取っていった。ピスガの山頂に立つとは、そうした恵みの経験を意味したのです。
Ⅲ. 古い生き方から解放される恵み―価値観の変化
2つ目は「エジプトの価値観/古い生き方から解放される」という恵みです。
聖書によれば、40年にわたる荒野での生活を経て、初めてモーセもイスラエルの民も、自分たちに染み込んでいたエジプト的な生き方や価値観から解放されていったのではないでしょうか。「信仰告白」の言葉を使えば、聖化の恵み/キリストに似た者へと成長させられていった、ということでしょう。これこそが、神がモーセに備えられたもう一つの恵みでした。
ところで、エジプト的価値観とは何でしょうか。一言で言えば、「神を神としない価値観」です。不思議なのですが、私たち人は神を神としない時、別のものを「カミ」とします。この時、イスラエルの民は400年にわたり奴隷の生活をしていました。ですから、ある意味、非常に依存的な生き方が身に染み付いていたことだと思います。
今日もヘブライ人への手紙を読ませていただきました。その6章1節から3節をご覧ください。ここを見ますと、生活の全ての領域で主を主とする生き方、言い換えれば、信仰生活の応用問題に対応するような御言葉の学びが求められていきますよ、と説かれています。但し勿論、「神のお許しを得て、そうすることにしましょう」、新共同訳では、「神がお許しになるなら、そうすることにしましょう」とあります。
信仰生活の応用問題に対処するためには、どうしても基礎が必要です。私たちの教会で言えば、「信仰生活の5つの基本」を通して、ぶどうの木であるキリストにつながることです。そうした信仰生活の中、次第に応用問題への対処の力が培われていく。ぶどうの木であるキリストに繋がり続ける中、周囲からは隠されている、見えない神さまとのパイプが太くなり、聖霊の樹液が私たちの魂に注がれ、そのようにしてキリストに似た者へと変えられていくのではないでしょうか。イスラエルの民にとっての荒野の40年のように、私たちにとっては、この地上での歩みが、よりキリストに似た私たちへと変えられていくプロセスでもあるのです。
Ⅳ. 信仰のバトンタッチ
そして最後3つ目に移りますが、この時モーセは、「信仰のバトンタッチの恵み」を経験しました。
先月、小澤征爾さんが亡くなられました。速報が流れた夜、ニュース番組で後輩の指揮者を指導する小澤さんの姿が報道されていました。その翌日、H.ナウエンの「よい死を迎える」という題の文章を読み、改めて色々と考えさせられました。
「私たちはみな、いつの日か死にます。これは私たちが確かなこととして知っている数少ないものの一つです。けれども私たちはよい死を迎えられるでしょうか。それは確かではありません。よい死を迎えるとは、他の人々のために死ぬこと、後に残る人々に対して私たちの生涯を実りあるものとすることです。したがって重要な問いは、『残された年月で何がまだできるか』ではなく、『私の後に続く世代の人々の間で、私の人生が実をもたらし続けるために、どのように自分の死を準備するか』ということです。」
この時、モーセは自ら「走るべき道のりを走り終え」ただけではなく、それを超えて、40年にわたって担って来たビジョン、神さまの約束された土地へ、神の民を連れ上る使命を次代を担う人々に託しています。そのことのために、どうしてもモーセ自身が「自らの分」をわきまえる必要がありました。だからこそ、ここで主は、まずモーセに向かって、「あなたはそこに渡って行くことはできない」と告げ、モーセの分/モーセの限界をはっきりと彼に知らせたのではないでしょうか。ここを誤ると、いくらよい働きであっても、それが引き継がれるのが難しくなるのではないかと思わされました。
神さまから私たちに託される働きが豊かであればあるほど、私たち1人で完成することはできない。そこには共同して働くという、横とのチームワークが求められます。同時に、その働きを次代に継承する必要も当然出て来ます。
このためにモーセは何をしたのでしょうか。申命記34章9節をご覧ください。「ヌンの子ヨシュアは、知恵の霊に満ちていた。モーセが彼の上に両手を置いたからである。イスラエルの人々は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおりに行った。」とあります。
モーセが召されるにあたり、慌てて後継者を定めたのではありませんでした。元気なうちから彼に手を置いて祈り、事あるごとに様々なところに連れて行き、実際の現場を見せ、そのようにして接した。ですから申命記に続くヨシュア記には、「あなたの命の続くかぎり、誰一人あなたの前に立ちはだかる者はいない。私がモーセと共にいたように、私はあなたと共にいる。あなたを見放すことはなく、あなたを見捨てることもない」(ヨシュア記1章5節)と出て来ます。
ヨシュアは、主がモーセと共におられたことを見て知っていましたから、ヨシュアにとっては、「私がモーセと共にいたように、私はあなたと共にいる」という言葉自体が意味するところの重みがよく分かったと思います。ただ、バトンを受ける側にそうしたセンスや学ぼうという意思がなければ、残念ながら継承が難しくなる。その証拠に、イスラエルの歴史を見ますと、モーセからヨシュアの世代へのバトンはどうにか手渡されたようですが、その次の世代の様子を、士師記は次のように伝えます。
「その世代の者も皆、先祖の列に加えられると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた業も知らない別の世代が起こった。」(士師記2章10節)
主を知る、主がイスラエルに行われた業を知る、これが継承すべき中心要素だった。ところがこれが伝わっていませんでした。
継承って本当に難しいと思います。家庭や会社、職場や組織も同じでしょう。上の世代の者たちに与えられている責任は、次の世代に「善きもの」を残すこと。その中でも特に人を残すことでしょう。名誉や名声を残すのではなく、人を残す。
モーセはヨシュア、その世代の人々に、最後の説教である申命記を語りながら、新しいイスラエルの民らに、信仰とビジョンのバトンを手渡してきました。そしてその後は、今度はヨシュアや残された次の世代の責任ですから、ある意味、モーセは、後のことは神さまに委ねて召されていったことでしょう。
主イエスは復活された後、40日間にわたって弟子たちに姿を現し、そして聖霊を送ることを約束された後、天に昇られます。その直前に「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されました。モーセ、そしてイスラエルの民を支え、戒め、励まし、愛してくださった同じお方が高座教会の私たちと共におられる。「私がモーセと共にいたように、私はあなたと共にいる。あなたを見放すことはなく、あなたを見捨てることもない。強く、雄々しくあれ」。この語りかけを受け止めてこれからも歩んでいきたいと願います。
お祈りします。