神様の傑作として、ともに生きる

江橋摩美神学生 奨励要約
創世記1章26,27節
エフェソの信徒への手紙2章1-10節
2024年3月10日

Ⅰ. 「神の作品」を用いる計画の成就

① 神様の計画
神様は世界を造られる前から「永遠の計画」を立てていらっしゃいました。エフェソの信徒への手紙2章1節から10 節には、その「神様のご計画」の目的とプロセスが書かれています。
② エフェソの信徒への手紙の主題「キリストのからだとしての教会」
「エフェソの信徒への手紙」の著者パウロが、この手紙全体で一番伝えたかったことは「教会はキリストのからだである」ということです。
③ 教会の構成要素である「神の作品」
聖書の中で「教会」と訳されていることばは「エクレシア」と言って、「神に召し集められた集団」という意味があります。
このことばには、おもに「三つの要素」があります。
まず「集団」であるということ。それはつまり、「人と人とのつながり」を意味しています。
次に「召された」という要素です。これは「神様から離れて、滅びに向かっていた罪人が、イエス・キリストの
十字架の犠牲によって、永遠の滅びから救い出された」という意味です。
そして、三つ目の要素は「キリストが教会の中心である」ということです。「エクレシア」の主体は、常に神様
ご自身です。神様と人、また人と人とをつなぐ絆は、いつも「キリストによって」作られるのです。
では「教会」を構成する「素材」はなんでしょうか。それは、イエス・キリストにあって神様に造られた「作品」
である、私たちクリスチャンです。

Ⅱ.神様の傑作

① ポイエーマ(workmanship)
10 節にある「作品」と訳されている語は、聖書の原語では「ポイエーマ(ποι$ημα)」と言います。「行う」とか「活動する」とか「作る」などを意味する「ポイオー」という動詞が名詞になったものです。「詩」という意味の「ポエム」の語源になった言葉だそうです。「詩」というのは、詩人の心のうちに浮かんだ思いを、言葉で表現したものですね。まさに、クリスチャンという「作品」は、神様がその“お心”にある思いを表現し、新しく造ってくださった存在ということではないでしょうか。
また「ポイエーマ」は、英語の聖書「workmanship」と訳されています。「workmanship」には、「(職人さんの)技量」とか「手際」、「できばえ」という意味があるのですね。実は明治時代の聖書では、この10節の「作品」という言葉が「傑作」と訳されていたと聞きました。単なる「作品」ではない。神様の造られた物の中でも、特に優れた名品、「傑作」というわけです。
② 傑作の素材
ではこの「傑作」の素材は何でしょうか。1 節から3 節によれば、神様の「傑作」の素材は「過ちと罪とのために死んだ者」です。生まれながらにして神様の怒りを受けるべき存在だった「罪人」という「かつては罪の中で、この世の神ならぬ神に従って歩んでいた者」が「傑作」の「素材」です。
普通作家は、より良い素材を用いて良い作品を作るために素材を選びます。でも神様は、汚らわしい罪人を素材としてくださいました。
そもそも神様は、天地創造の時、人間を「神のかたち」として造られました。創世記1 章27 節には「神は人を自分のかたちに創造された」とあります。人は「神様のかたち」に造られたのです。
しかし、最初の人アダムとその妻エバは、神様に背くという「罪」を犯しました。それゆえ、人間の「神のかた
ち」は崩れてしまいました。聖書の言う「罪」の特徴は、神様の方向を向かずに「的を外す」ことです。それは、人が神様のように振舞おうとして、神様に反抗することです。さらに人は自分を汚すことによって神様の聖さを冒涜します。すべての人が、このような罪を生まれながらにして持っています。
ところが神様は、罪の中に死んでいた者を、新たな「傑作」として造り変えてくださったのです。
③ 動機と目的
神様が、罪人を「傑作」として造り変えてくださった「動機と目的」は何でしょうか。
4節を見ると、造り手である「憐れみ深い神様」が私たちを愛してくださり、私たちを「傑作」として造ってくださったことがわかります。動機は「愛」です。そしてその目的は、7 節に書いてあるように、神様の愛によって「神の限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に現すため」です。「動機も目的」も、神様からの一方的な「恵み」に由来します。8 節にも、この「神様のご計画」が「恵み」によって行われ、そしてそれは、私たちに与えられた「神の賜物」であるということが書かれています。

Ⅲ. 神の傑作のわざ

① 「キリスト・イエスにおいて/あって」そして「キリスト・イエスとともに」
6節、7節、そして10節に、繰り返し「キリストにおいて」また「キリスト・イエスにあって」ということばが出てきます。それは、神様が「イエス・キリストを通して」「罪人」を救ってくださったということです。「キリストにあって」という方法は、神様が、ご自身のひとり子である、罪を知らないイエスさまを、私たちのために罪として、十字架につけるというものでした。そして、悔い改めて、イエス・キリストを通しての“救い”を信じる人を、新たな「傑作」として造り変えてくださるというやり方でした。
「悔い改め」と言う言葉は、その人の心、物の見方、価値観、目標、生き方、生活のすべてが変えられることを意味します。この変化は徹底的なもので、新しいいのちを生き始めることを意味するのです。だから「キリストにおいて」と言う時、それは、「イエスさまのいのちに生きる」ことを指します。
さらに「キリストにおいて」ということばと同時に、5 節では「キリストとともに」ということばが使われています。
英語ですと「with Christ」ですが、聖書の原文では「一緒につなぐ」とか「結合する」とか「組み合わせる」という意味を持ち、また結婚などを表す場合にも使う「動詞」があてられています。あるものとあるものの「関係性」を表す語です。だから「キリストとともに」というのは、イエスさまと親密な関係を持っているということになります。イエスさまに固く結び合わされているということなのです。イエスさまは、ご自身のいのちを、完全に私たちに与えてくださいました。こうして私たち罪人は、自分では決して成し遂げることのできない、神様の御前に完全に正しく歩むという、イエスさまがしてくださったその歩みを生きているものとして、神様に受け止めていただけるのです。
これが、「キリストとともに」生かされ、また「キリストにあって」造られたということです。
② 善い行い
ここで言われている(大切なキーワード)「善い行い」をするということは、神様の恵みによって、人間の手ではすることの出来ない「キリストのわざ」を行わせていただくということです。「善い行い」は、「人間のわざ」ではなく「キリストのわざ」を指し、キリストご自身が「神様の傑作」を通してなされることです。「キリストのわざ」とは、「キリストにあって」神と人を「愛すること」であり、「キリストにあって」「赦すこと」であり、「キリストにあって」「神様に従うこと」であり、「キリストにあって」「神様の栄光をあらわすこと」です。「善い行い」は、「キリストのいのちに生きる者」にこそ備えられているのです。時には失敗することもあるでしょう。しかし、イエスさまの似姿として成長して行くというその過程も含めて、「善い行い=イエス・キリストのわざ」が備えられているということなのではないでしょうか。
③ 傑作の共同体=教会(神のからだ)
また、「教会」も「神様の傑作」であり、「神の器」として召されています。その目的は、やがて実現する「神の国」の完成に向け、この地上にあって、キリストのからだとして世界全体を神様の愛で満たして行くことです。
この世界にあって、世界のために「善い行い」をするために召されている「教会」は、キリストが主権者である「神の国」を、この世界にあって具体的に実現していくものなのです。

結論

罪人として、死へと向かっていた私たちは、あわれみ豊かな神様の愛の手で、「イエス・キリストにあって」
「神様の傑作」として造り変えられました。それは、私たちが、キリストをかしらとした神様のからだの一部になって、キリストのいのちを生き、キリストのわざ、すなわち「善い行い」をするためです。イエス・キリストにあって「神様の傑作」として造られた私たちには、他の「傑作」つまり、隣人ととともに「キリストのからだ」として、
神様の栄光をあらわして行くという使命があるのです。「キリストのわざ」のあらわれ方は、人それぞれ、またその時々にあって、異なります。その人なりの、備えられた「善い行い」があるのです。なぜなら、キリストのいのちに生きる、その存在がすでに「傑作」だからです。神様が祝福してくださいます。その祝福を存分に受け取り、そして、神様の御手の中で、互いに愛し合いながらその祝福を広げ、神様の栄光をあらわし、感謝しつつ歩んでいきたいと思います。
 お祈りします。