子ろばにのった主

和田一郎副牧師 説教要約
2024年3月24日
ゼカリヤ書9章9,10節
ヨハネによる福音書12章12-16節

Ⅰ. はじめに

 先日、ある教会の結婚式に家族で行きました。その予定を息子に伝えると「それって特別な日だよね」というので「そうだよ結婚式だから特別な日だね」と言うと、「特別な日だから、コーラやポテトチップ買っていいよね、約束だよ!」と言いました。最近よく口にするのが、そのような約束事です。自分がやりたい事や欲しい物があると、約束さえすれば上手く手に入ると思って、自分勝手な約束をしようとします。二千年前にも自分勝手な期待をかけて、それが期待通りではないと分かって憤慨する人たちがいました。
今日は棕櫚の主日と呼ばれる日です。約二千年前、イエス様をエルサレムに迎えるユダヤ人にとって、それは旧約聖書に記されている預言が成就するという期待がありました。自分たちが思い描いたメシアの到来という特別な日が近いと思わせる日でした。

Ⅱ.  エルサレム入城

 ヨハネの福音書は、この12章から後半部分に入り、ここからイエス様の最後の一週間が始まります。12節「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた」とあります。
なぜ、群衆はエルサレムに来られるイエス様を、わざわざ出迎えに行ったのでしょうか?しかも叫び続けるほど熱狂的に迎えたのです。
先月、私はヨハネによる福音書9章から、生まれつき目の見えない人を、イエス様が癒した出来事を話しましたが、目の見えない人が見えるようになった出来事も、エルサレムの町の中で起こった出来事です。エルサレムの人々は毎日物乞いをしている目の見えない、その人を知っていましたから、その人の目が見えるようになったという出来事に驚きました。ファリサイ派や律法学者たちは、単なる噂や勘違いだと、ごまかすことが出来ませんでした。
そうしたイエス様の奇跡を繰しかえし耳にしていたユダヤ人たちは、さらに今日の箇所の17節にあるように「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせた」という話も聞いていたのです。
ヨハネ福音書11章にラザロの蘇りというイエス様の奇跡の業が書かれています。その出来事は多くの人々を驚かせ、その結果イエス様一行に群集が押し寄せるようになっていました。このイエスという方はメシアに違いない、旧約聖書の預言によって約束された人、特別な力を備えたメシアであるという期待が高まっていたのです。

Ⅲ. 群集が期待していたもの

 しかし、その期待されていたイエス様は、人々の期待とは違った形で、エルサレムへ向かっておられました。14節に「イエスは子ろば を見つけて、お乗りになった」とあります。
ユダヤ人をローマ帝国の支配から解放してくれる強い力を持ったメシアに、群衆は期待していたのです。ユダヤ人はローマ帝国に抑圧されるような民族ではない、神が選ばれた特別な民族であるという意識がありましたから。ですからこの場面でそれに相応しいのは馬に乗ることでしょう。馬は力強さや、スピードに長けた武力の象徴でした。馬は見るからに立派です、立派な馬に乗っただけで、その人の姿は強く雄々しく見えるものです。戦う時には抜群の戦力となります。
しかし、ロバは小さいですし力もありません。ロバに乗って戦争で戦うということはありません。よく牧場で子どもを乗せる所がありますが、子どもがロバに乗っている様子は、のどかで微笑ましい限りです。しかも「子ロバ」ですから、人間の子どもならまだしも、大人を乗せて歩くには重くてヨタヨタと行くしかありません。この時、イエス様こそ自分たちをローマの支配から解放してくれる力ある王だと期待する大群衆の声の中を、イエス様は弱々しい子ロバに乗ってヨタヨタと進んで行かれたのです。

Ⅳ. 象徴的行為

このように、イエス様がロバに乗っていかれたのは象徴的な行為です。イエス様がロバの子に乗ることを選ばれたのは、なぜでしょうか。15節に旧約聖書の言葉が引用されていますが、これは、今日の聖書朗読で読んだゼカリヤ書9章9,10節です。
エルサレムに、まことの王が来て勝利して王座に着く、その王を喜び叫んで迎えよ、という預言です。この預言は、エルサレムに来られるまことの王は、ロバに乗って、雌ロバの子に乗って来るということですが、その意味は「へりくだって」ということです。それは単に謙遜な者ということではありません。10節にあるように、戦車や軍馬、弓といった軍事力によるのではない、ということです。強さよりも弱さによって、勝利を得るのが、まことの王であるのです。その王が来られることで、戦いは終わり平和が訪れるのです。
「ろばの子に乗る」というのは、その象徴的な行為です。力ある王だと期待する大群衆の声の中を、ヨタヨタと子ロバに乗って進んで行かれたというのは、印象的な場面です。争うことなく勝利する、まことの王、その王の支配が海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶことによって、まことの平和が実現すると預言は語っています。イエス様はこのゼカリヤの預言が語っている、へりくだった王、弱さによってこそ支配する王としてエルサレムに来られたのです。イエス様がロバの子にお乗りになったことはそういうことを意味しているのです。
喜びの叫びをあげてイエス様を歓迎したエルサレムの人々の期待と、ロバの子に乗ったイエス様の姿、このギャップは、神様と私たちとのギャップです。神様の思いと私たちの思いにはギャップがあります。神様の期待と私たちの期待は違うのです。私たちは期待外れだと分かると落胆するばかりか、怒りを覚えます。その怒りは、この出来事の数日後にイエスを「十字架にかけろ」と叫ぶ声になっていったのです。
私たちは、へりくだった姿で自分の使命を果たし、自分が負う十字架に向かってへりくだった姿で歩んでいく者でありたいと思うのです。

Ⅴ. 戦わずして勝つ

 へりくだった姿で自分の使命を果たした人物に注目したいのですが、77年前にアメリカのドジャースという野球チームは、近代メジャーリーグになって初めて黒人選手と契約を交わしました。当時、黒人選手はリーグから締め出されていました。実際に入団とするとなれば、あらゆる方面から嫌がらせなどを受けるのは間違いない。球団のオーナーは忍耐力と謙遜さを持つジャッキー・ロビンソンという人に注目しました。
入団交渉の際にオーナーは、わざとロビンソンに侮辱的な言葉を浴びせ「お前は弱虫だ」と言った時、ロビンソンが思わず「あなたは弱虫がお望みなのですか」と言うと、オーナーは「いや、反撃しない勇気を持つ者が欲しいのだ」と答えた。さらに「これから嫌がらせや侮辱を受けることになるぞ」と言うと、ロビンソンは「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しますよ」と、山上の説教で語られたマタイ5章の言葉を返したそうです。
実際にリーグが始まると、嫌がらせと闘わなくてはならなかったのですが、決して報復せずにプレーに専念しチームは優勝、ジャッキー・ロビンソンは新人賞をとり、その後大リーグは彼の功績を称え、背番号「42」はすべての球団で永久欠番となっています。
私たちは自分勝手な期待を描いていないでしょうか。自分勝手な期待を手放して、子ロバに乗ったイエス様のように、へりくだった姿で自分の十字架に向かって歩んで行きましょう。
お祈りをいたします。