新たな出発―舟の右側に網を打ちなさい

松本雅弘牧師 説教要約
詩編23編1-6節
ヨハネによる福音書21章1-14節
2024年3月31日

Ⅰ. ティベリアス湖畔にて

人には思い出したくもない失敗が幾つか、いや幾つもあることでしょう。この時のペトロもそうでした。3年間生活を共にし、導かれた主イエスさまのことを「そんな人知らない」と3度も否定してしまったことでした。最初から自他ともに認める弟子集団のリーダーとして歩んで来たペトロです。この失敗によって〈もうダメ。自分はやっていけない〉と感じていたことだと思います。
この時の舞台は、十字架と復活の出来事があったエルサレムではありません。ティベリアス湖畔です。「ティベリアス」とはガリラヤ湖の別名です。この日、ペトロの先導によって、7人の弟子たちで夜明け前に漁に出ました。ところが、残念なことに収穫はゼロ。疲れを覚えながら岸に向かって舟を漕いでいますと、湖畔に見知らぬ人が立っています。夜明け前でしたから、辺りはまだうす暗く誰であるのか、すぐには分かりませんでした。
湖畔に立つ、その見知らぬ人物が、疲れて戻って来るペトロたちに呼びかけました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうそれば捕れるはずだ」と。
この時点で、その言葉の主がイエスさまだと分かっていなかったようですが、どういうわけか弟子たちはとても従順でした。言われるままに網を降ろすのです。すると網が張り裂けんばかり、舟が重さで沈みそうになるほどの大漁となったのでした。弟子たちは驚嘆しました。
本当に不思議、考えられないような大漁を経験した直後、湖畔で待ち構える人物が復活の主キリストであると最初に気づいたのが、「イエスの愛しておられたあの弟子」と記されている、この福音書を記したヨハネでした。最初に主だと分かったのがヨハネであれば、それを知って最初に行動に出たのがペトロでした。彼は、急いで上着を羽織って湖に飛び込みました。
一つの出来事に対して、全く対照的な行動に出たペトロとヨハネのことを考えてみる時、主イエスというお方は、全くタイプの異なる人々を弟子としてお召しになるお方であることを改めて知らされます。
ある牧師が、「現代は、互いのちがいを比べては優劣を競い合わせる時代だ」と語っていましたが、まさにタイプの異なる者たちをそのままの姿で受け入れ、愛してくださる。そうしたお方こそが、私たちの主イエス・キリストであることを知り、本当に感謝な思いにさせられるとともに、そうした者同士が「互いに愛し合いなさい」と最後の晩餐の席上でお語りになり、自らたらいに水を汲み、腰に手ぬぐいをまいて、弟子たち一人一人の足を丁寧に洗われた。そして「あなたがたも同じようにしなさい」と語られた事実の前に、感謝を通り越して、本当に厳かな思いにさせられるのではないでしょうか。この私は、この点において主に倣って来ただろうか、と問われ、深い悔い改めを迫られたように思います。

Ⅱ. 在れ!

今月、あるオンラインの集会に参加した際、「静まれ、私こそ神であると知れ」という詩編46編11節の御言葉が読まれ、その御言葉を静かに思い巡らす時がありました。
エクササイズの集会で学びました「レクチオ・ディヴィナ」の読み方に従って、20分から30分の時間をかけて、一つひとつの言葉を丁寧に味わいました。そして最後、導き手の先生が、「在れ」という言葉を静かに読まれたのです。
日本語の聖書だと分かりにくいのですが、詩編46編11節、「静まれ、私こそ神であると知れ」という聖句ですが、英語ですと、レジュメに書きましたように、“Be still, and know that I am God.”と、最初に”Be“、すなわち「在れ/存在しなさい/居なさい」という、それも命令形で語られているのです。
その日、それこそが、主からの語りかけの言葉として妻に、そして私に語られた言葉として心に届き、その御言葉によって救われる経験をしたのです。「在れ/存在しなさい/居なさい」。主は私たち夫婦に語ってくださったように思います。
以前、コリントの第一の手紙12章から「主にある交わり」について学んだ時、だれに対しても、「『あなたは要らない』と決して言ってはならない」とお話したことがあります。
神さまが、私たち一人ひとりを御心のままに招いて、体の一部としてくださっている。体とは、私たちにとっては、高座教会という信仰共同体、キリストの体なる教会です。教会というキリストの体の中で、自分が鼻なのか口なのか、目なのか耳なのか、主が私たち一人ひとりを、どのような使命をもって置いていてくださるのかを受け止め、受け入れるまで、時には、今日の個所に出てくるペトロとヨハネのように、結構、長い期間にわたってギクシャクした関係が続くことも現実かもしれません。
しかし、そのギクシャクを通し、私たちが祈り求めていくべき方向性は、荒れ野で竿の先に上げられた蛇を仰ぐように、私たち全ての者を招いてくださった主を見上げること、主に向かうこと、そのことこそが、何よりも教会一致の基礎なのだと思わされます。
キリストの体である教会は賜物が豊かであるがゆえに、時に、一つひとつの賜物違いが対立の原因になりかねません。でも、聖書は、その違い、英語ではダイバーシティでしょうか、その違いがキリストの体の豊かさを現すのです。この点がとても大切だと思いました。そして私たちはそこにあって謙虚にさせられていく。特に、今年に入ってから、自ら経験したことを通して、そのことを強く考えさせられました。
ここでペトロは泳いで岸を目指しています。それに対して彼以外の6人の弟子は、捕った魚を持ち帰ることも念頭にあったのでしょう、舟を漕いで岸を目指しました。
「岸を目指す」、言い換えれば、「主とお会いし、主と交わるために、岸におられる主イエスのもとに行く」というゴールや目的は一つです。しかし、そのための方法論は人さまざまなのでしょう。特に教会において、この目的と手段を混同するとき、あるいは目的やビジョンが不透明になり、見失ってしまうような時に、本来、麗しいキリストの体なる教会の交わりがギクシャクしてしまうのだと思います。

Ⅲ. 主イエスの優しさ

さて、この時、彼らが経験したのは、「たくさんの魚が獲れた」ことだけではありません。彼らは、力の主を知ったのです。さらに加えて、主の優しさにも触れたことでしょう。なぜなら主は、彼らのために焼き魚と温めたパンとを用意して待っておられた。しかも冷え切った体を温めるための炭火までおこしておられたからです。
立ち止まり、ふり返ってみれば、緊迫した受難週、ロバの子に乗ってのエルサレム入城から始まった一連の出来事、最後は壮絶な十字架での死でした、しかもお世話になっていた主を捨て一目散に逃げてしまったという自らに対する深い失望。そうした一つひとつに打ちひしがれ、傷ついていたのが、この時の彼らでした。
説教の冒頭でお話しました。ペトロは、三度も主を否んだ後、そのことで主に向き合い、赦しを乞うこともしていません。そのような意味で本当に中途半端な状態にあったと思います。彼からしたら、わだかまったまま。主との間に挨拶もない。目を合わすことすらできない。
ところが、先ほどの大漁の奇跡、そして何よりも焚火にあたりながらいただく焼き魚定食は、まさに最高のもてなし、人の子は仕えるためにやってきたとおっしゃった、そして私に倣う者になるようにと招かれた、まさに弟子としての原点、三年間にわたる主イエスとの生きた交わりを通し、体で覚え込まされた、言わば、イエスさまに従い倣う生き方こそが、人間らしい、本当の祝福にあずかる道なのだ、という気付きを与える恵みの出来事となったのではないかと思うのです。
私は、この説教を準備しながら、パウロが、コリントに宛てて書いた手紙の13章の「愛の賛歌」(Ⅰコリント13:4-8)が心に思い浮かびました。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びません。」 
この「愛は」という部分を「イエスは」と置き換えて読むと、この御言葉がもっと心に迫って来るように思います。
ペトロや他の仲間の弟子たちに、そして誰よりも私たちに対して、イエスさまというお方は、忍耐強く、情け深く、謙遜で、怒って脅すようなこともせず、私たちを信じ、望み、耐えてくださる。そうした大きく、深く、長く、高い愛をもって愛していてくださっておられるということでしょう。
考えてみますと、ここに登場する人々の中で、最初に行動を起こされたのは他でもない主イエスです。主イエスこそが、行き詰まりを経験していた弟子たちに向かって、「舟の右側に網を打ちなさい」と語りかけ、弟子たちに大漁を経験させた。いつもお話しする「先行する恵み」です。私たちはその恵みを発見し、それに応答する。信仰生活ってそういうことでしょう。
私たちの主イエスさまは、その時、その時、私にとって本当に必要な、行き詰まりや事態を打開するような導きを、聖書の御言葉を通して与えてくださる。主イエスは恵みの御言葉を与え、私たちがその御言葉に応答するとき、そこに命が溢れるのです。

Ⅳ. 新たな出発を導かれる復活の主イエス

主イエスは弟子たちに向かって、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われました。このとき誰も、「あなたはどなたですか」と聞く人はいませんでした。
ある牧師が語っていましたが、「この言葉、この仕草で、彼らはかつての、懐かしいイエス・キリストと共にある食事を思い起こしたに違いありません。イエス・キリストはパンを取って弟子たちに与え、魚も同じようにされました。彼らは、至福の時を経験した事でありましょう。これは、あの厳粛な『最後の晩餐』とは違う、復活の主による希望に満ちた新しい宴、言い換えれば『天国の宴』を指し示しているようです。」
この後、共に聖餐にあずかります。それは私たちが天に挙げられる時、そこに私たちの席が用意され、私たちよりも一足先に引っ越していった、愛する家族や仲間たちとともにあずかる祝福の宴を指示している。この時のガリラヤ湖畔での朝食も、まさにそのようなものだったのではないかと思います。
私たちは日々の生活において、この時の弟子たちのように様々な失敗や挫折を経験するかもしれません。しかし、決して離れてはいけない。いや、復活の主が私たちに先立って私たちを待っていてくださり、言葉をかけ、道を示し、食卓や焚火を用意していてくださる。そこに私たちの新しい出発、何度も何度もやり直すことのできる恵みが備えられていることを覚えたいと思うのです。今、この時の現状がどうであろうと、工事を始めてくださったお方は、必ずその工事を完成してくださる。ですから、長いスパンで互いの歩みを観ていくことが大事なのではないでしょうか。
皆様の上に、高座教会のこれからの上に、主の祝福が豊かにありますようにとお祈りいたします。