初めからおられた方

和田一郎牧師 説教要約
2024年4月7日
創世記26章1-6節
  ヨハネによる福音書8章31-36節

Ⅰ.キリストの神性と人性

 今日から四つの福音書を通してイエス・キリストの生涯を説教していきたいと思います。1回目はイエス・キリストの啓示から始まるヨハネの福音書から始めたいと思います。
イエス様は神であり、人として、この地上で過ごされました。完全に神であり、完全に人として過ごされました。ですから半半ではないということです。神性(しんせい)と人性(じんせい)を兼ね備えた方がイエス・キリストだと、ヨハネ福音書は啓示しています。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と、聖書の出だしの言葉で簡単明瞭にキリストの神性を表しています。「初めに」といういのは創世記1章1節の「初めに」と同じ意味です。天地が創造される前の状態を表しているのですから、時間的な概念を超えた神秘の中にある言葉で、ヨハネ独特の表現です。例えばヨハネの手紙では「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの、すなわち、命の言について。」(Ⅰヨハ 1:1)
ヨハネ黙示録でも「この方は血染めの衣を身にまとい、その名は『神の言葉』と呼ばれた」(黙 19:13)と、ヨハネは「ことば」と表現しているのです。ヨハネは「イエス・キリストは神ではない。」と考える人がいたので、キリストが「神の子」であることを『ヨハネ福音書』を書くことで人々に伝えたかったのです。しかし、「神の子」という言葉は、ユダヤ人たちが嫌う表現でしたので、その表現を避けて「知恵・理性」を意味する「ロゴス(ことば)」と表現したのです。

Ⅱ. 喜ばせ楽しむ者

 「言は神と共にあった。」 「言」とはキリストを指していますが、子と父は異なるけれど分離しがたく結合している様子を「言は神と共にあった」と書いているのです。そして「言は神であった」というのは、これ以上にないほど、明確にこの地上で、人として生きたキリストの神性が宣言されています。
2-4節「この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった」。ここでまた「初めに」という1節と同じ言葉があり、天地創造の前のことに触れています。そして「言によって・・・成った」天地万物は御子によって造られたことが記されています。
ここの箇所の説明には、今日の旧約聖書の聖書箇所(箴言8章22-31節)が説明しています。
22節「主はその道の初めに私を造った」とありますが、新改訳聖書では「わたしを得ておられた」と書かれていました。ですから父なる神は、イエス様という独り子を得て、天地創造の業を行われたのです。
箴言に書かれている天地創造の出来事は新鮮でキリストの人格が豊に記されていますね。
イエス様は、この世界を腕を振るって美しく造り、父なる神を喜ばせ、キリスト自身も楽しむ者であった。天地創造の働きは、父なる神様にとってもイエス様にとっても楽しく喜びであった、そして、その喜びは「人の子ら」、つまり造られた人間をも喜ばせたのです。
天地創造のできごとは、創世記1章31節に「それは極めて良かった」とありますが、天地を創造した神にとっても、造られた人間にとっても楽しみと喜びがあったというのです。

Ⅲ. 言という人格

先々週、わたしたちはキリストの受難を覚えて受難週を過ごしました。十字架に架かって死を受けてくださった、イエス様の足取りに思いを寄せました。
天地創造の出来事において、父なる神と御子には、楽しみ喜びがありました。平和な風景が思い起こされます。それにも関わらず人間の罪のために、その喜びを共にしていた独り子を、地上に送り、人間と同じ苦しみを味わい、十字架で血を流して死を受けてくださる決断をされたのです。現実にその痛みと死を遂げてくださった重みを、私たちは受け取らなければなりません。
そのことを重く受け止め、何としても知って欲しいと思っていたのは、この書の著者ヨハネだったのではないでしょうか。イエス・キリストは神であられたのに、人となってくださった。へりくだって謙遜を示して死なれ、復活された方を、ヨハネは目の当たりにしたのです。そのイエス様の真実を何とかして伝えたいと思ったのです。
そのヨハネが、イエス様のことを、「言(ことば)」と表現した。先ほど「神の子」はユダヤ人が嫌う表現だからと説明しましたが、それ以外にも意図があったように思いました。
ヨハネは、自分の信じるイエス様の神性について伝える時に、言葉の神様であることを示したかったのではないかと思うのです。「ことば」は心の表現です。つまり人格をもつことを意味します。真の神様は人格や感情がない方ではない。遠くから一方的に支配される方ではなくて、人格を持つ方であって、喜びや楽しみ、時には怒りという感情も現わして、そのような性質の中から生み出された「言(ことば)」によって、私たち人間と関わろうとしてくださる方なのだと、ヨハネは伝えたかったと思うのです。
まだ、我が家の息子が小さいとき、初めて口にした言葉は「ママ」だったと思います。妻は「そうだよママだよ」と答えて嬉しそうにしていました。それから、しっかりとした言葉にならないのですが、一生懸命、言葉にならない言葉で話そうとする様子を見て、ここに人格があると実感したものです。ヨハネはイエス様のことを証しする、この福音書を書く時に、感情、知性、意思という人格を備えて、権威ある「言(ことば)」によってご自身を、私たちに啓示される方こそ、真の神様であることを伝えたかったのです。

Ⅳ. 初めての生活に向けて

4月に入って、新しい年度、新しい生活をスタートする季節になりました。みどり幼稚園でも入園式、進級式がありました。4月から新しい園長先生になりました。園長先生と話をしていたら「何かフワフワしている」と言っていました。
私も同じで4月から担任牧師になるので、落ち着かなくてフワフワしています。4月は初めての生活、初めての役割、初めての出会いがあると思います。今日私たちは「初めに言があった」と啓示された御言葉と共に、私たちに意思をもって語られる神様がいることを覚えたいと思うのです。
天地万物を造られた「言(ことば)」である神イエス・キリストは、紛れもなく初めからおられた神であり、創造者なのです。その真理に立つならば、私たちの初めての生活、役割、出会いにおいても、何もなかったところに主は新しい良い物を造ってくださいます。「言(ことば)」で天地を創造された神キリストは光であって、光は闇の中で輝いていると宣言されました。
新しい生活においても、何もないところから奇跡を起こされるキリストの光を心に携えて、「言(ことば)」に従って歩んでいきましょう。
お祈りをいたします。