喜びの秘訣
<春の歓迎礼拝> 宮井岳彦副牧師 説教要約
フィリピの信徒への手紙第1章3-11節
2024年4月21日
Ⅰ. 喜びの礼拝へ、ようこそ
キリスト教会の礼拝へ、ようこそ。心から歓迎します。私は、礼拝は完全な時間、完全な空間だと思っています。私たちはここで神さまと出会うからです。
そのようなことを言われても、「ずいぶん大げさだなあ」と、もしかしたら思われるかもしれません。確かにそうです。大げさにしか聞こえない。それは、私たちの神さまとの出会いは、神さまの方に主導権があるからです。神さまが私たちと出会ってくださる。そうであるからには、私たちの基準では推し量ることができない。神さまの方にイニシアチブがある。そうすると、私たち人間の基準からしたら「大げさ」というのはある意味当然です。私たちには測ることのできない出来事なのですから。
しかし、今この時、神さまは私たちと出会ってくださっています。私たちは神さまを仰いで賛美の歌をうたい、祈りを献げます。そして、私たちはキリストの福音の言葉に耳を傾けます。そこに私たちの喜びがある。喜びに包まれる。
それでも私たちの周りには喜びを奪っていくようなこと、たくさんの出来事や自分自身の失敗、人間関係の悩みなど、いろいろあります。不安のために心が押しつぶされてしまうこともあるかもしれない。
旧約聖書にこのような言葉があります。「すべての肉なる者は草/その栄えはみな野の花のようだ。草は枯れ、花はしぼむ。主の風がその上に吹いたからだ。まさしくこの民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。(イザヤ40:6b-8a)」草が枯れ、花がしぼむように、私たちの営みは儚(はかな)く不確かです。喜びが生まれてもそれはほんの一時のもので、しばらくすれば跡形もなく消えうせてしまいます。
しかし、聖書は更に言います。「しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ。(イザヤ40:8b)」この「神の言葉」というのは、福音のことです。神が私たちに下さる福音、良い知らせはとこしえに立つのです。例え私たちが不確かで儚く、私たちの喜びは一瞬のものにすぎなくても。
Ⅱ. パウロの喜びの秘訣は?
今日私たちが耳を傾けているのは、新約聖書に収められている「フィリピの信徒への手紙」という一通の手紙の冒頭部です。この手紙を書いた人はパウロといいます。7節を見ると「獄中にいるときも」と書いてあります。更に13節にも「私が投獄されているのは」と書かれています。この手紙を書いたパウロという人物は、今、牢獄にいます。獄中で書いた手紙です。
そう考えて読んでみると、驚くべき事が書かれています。「私は、あなたがたのことを思い起こす度に、私の神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。(3,4節)」
感謝するとか、喜ぶなどと書いてあります。しかも、「いつも」です。パウロは牢獄の中ででも、フィリピの教会の仲間たちのことを考えたら、いつでも神に感謝し、どんな時にも喜んでいる、と言うのです。驚くべき言葉ではないでしょうか。
先ほどの旧約聖書の言葉と同じだと思います。草は枯れ、花はしおれる。私たちもこの世界も同じで、客観的に見て、外面的に見て、一体どこに喜ぶ要素があるのか、どこに感謝できるような理由があるのか、分からない。牢獄なんて喜びからいちばん遠い場所としか思えません。しかし、この人は喜んでいます。フィリピの教会の人達のことを思い起こす度、いつも。
なぜなのでしょう。一体どこに喜びの秘訣があるのでしょう?
パウロはそれをこのように言っています。「それは、あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっているからです。(5節)」
やはりここでも、パウロもあの旧約聖書が伝えているところと同じです。福音。神が下さった良い知らせ。喜びの知らせを神が下さった。だから喜んでいる。どんな時にも、どんな場所にいても、いつも喜んでいられる。その秘訣は、神がこの喜びを下さったから、ということに他ならない。神が福音にあずからせてくださったから。
Ⅲ. 福音とは何か?
そうすると問題は、その「福音」、良い知らせというのは一体何のことか、ということになります。
以前から私は本厚木にあるYMCAの保育園で礼拝のお手伝いをさせて頂いています。コロナで中断していた保育士さんのための聖書の学びを近々再開することになりました。YMCAという聖書の信仰に根ざして建てられた保育園、しかし必ずしも職員の方たちは皆さんがキリスト者というわけではない園で、どのように福音を伝えるのか?
改めて自分が子どもたちに何を語りたかったのかということを考えました。そうすると、一言で言えば「神さまはきみのことが大好きで、きみを愛しているよ」ということを伝えたかった。それだけです。そして、「福音」というのは、一言で言えばこのことです。神さまはあなたを愛している。主イエス様は、あなたを大好きでいてくださる。
このキリストの愛、神の愛にあずかっているという事実がパウロの喜びの源泉です。いつ、どんな時にもこの事実に立ち戻る。それがパウロの喜びの秘訣です。
改めて先ほどの言葉をもう一度思い出したましょう。パウロは「(あなたがたは)福音にあずかっている(5節)」と書いていました。この「あずかる」と翻訳された言葉がとっても大事です。
新約聖書が書かれたのはもともとはギリシア語ですが、ギリシア語の聖書を開いてみると、この「あずかる」という言葉は「コイノーニア」という単語で表現されています。この言葉は教会にいると時折耳にします。コイノーニア。交わりとか、共に生きるという意味です。
もともとは「何かを共有する」という意味だったそうです。例えば、部活で一緒に苦しい練習に耐えた仲間というのは、特別でしょう。苦しみに耐えるという経験を共有している。部活での辛い思い出が基になるコイノーニアです。私たちキリスト教会は、キリストの愛を共有するコイノーニアです。キリストの愛を一緒に味わう仲間。キリストの愛を共にいただいているコイノーニア。それが私たち。例えそこが獄中でも、或いは、悲しみの底であったとしても。
キリストの愛を告げる福音にあずかるといったとき、私たちは独りぼっちでそれを味わっているというのではなくて、共に生きる仲間と共有しているのです。キリストの愛のコイノーニアに私たちは生かされている。神は私たちに共に信じる仲間との出会いをくださいました。キリストの愛のコイノーニア、福音のコイノーニア、それが教会です。私たちはそうやってキリストの愛を経験します。共に福音をいただくコイノーニアとして、喜んで神を礼拝して喜ぶことによって、私たちの喜びは揺るぎないものになります。
Ⅳ. キリストにある喜びの証人に囲まれて
神が私たちを愛してくださった。その事実を、私たちは共に生き、この福音を共有する教会の仲間たちと共に喜びます。あなたも、その一人です。
教会にはたくさんの人がいます。いろいろな経験をしてきた人がいます。たくさん辛くて悲しい思いをして生きてこられた方も何人もいます。
草のように枯れ、花のように散るものでしかない私たちのために、神の愛を告げる福音の言葉が語られています。皆さんの周りにも、悲しみの底で神と出会い、キリストの愛を知って、けなげに生きている人がたくさんおられるのではないでしょうか。この証人たちがあなたのために神の喜びを運んで来てくれています。
お祈りします。