彼のおかげで幸せを知った

和田一郎牧師 説教要約
2024年4月28日 春の歓迎礼拝
エレミヤ書29章11節

Ⅰ.神さまの計画

 今日の聖書の言葉は、神様は私たちの人生の計画をよく知っている。それは希望と、平和のある人生だと言うのです。私たちの命を造ってくださった神様は、私たち自身が知り得ない、将来について素晴らしい計画をもっているというのです。  
私は登山をする時「登山計画書」を登山口の箱に入れます。しかし神様は自分にピッタリに作って下さっているのです。その人にあったルート、登り方、体力にあったコースを知っているのです。
かつて丹沢の山を沢登りで登ったことがあります。沢の流れに沿って、美しい渓谷の中を登って行くと山頂に着きました。その時思ったのです。同じ山の山頂に辿り着くにしても、いろいろな登り方があるのだなと。登山道、ロッククライミング、沢登りなどです。
人生の計画も同じで、人それぞれの生き方がありますが、もっともふさわしい計画は神様が知っていて、その道を選べるように「聖書の言葉」で示してくださるのです。
ところが、私たちは他人と比べたり、人より早く登ろうとしたり、自分勝手なルートを登ってしまって失敗することがあるわけです。

Ⅱ . 平和の計画であって、災いの計画ではない

   今日の聖書の言葉はエレミヤという預言者の言葉です。戦争に敗れたユダヤ人たちが、敵国のバビロンという国に捕虜として連れて行かれたのです。生きる希望を失いかけた人達に、神様には希望と、平和の計画があると伝えたのです。
捕虜となった目の前の現実は辛いものです。中には反抗的になったり不平不満をぶつけたりする人もいたのです。しかし、神様の計画は捕虜となったことについても、希望と平和の計画の一部なのだと伝えているのです。だから捕虜となっている期間は、その町の繁栄の為に尽くすように教えたのです。
結局、バビロンに捕虜とされた期間は70年にも及んだので、その地で生涯を終えた人もいたのです。しかしユダヤ人の歴史においては信仰共同体を再構築するために必要な期間でもあったのです。そして、バビロンの役人や王の妃となって、その国の繁栄のために用いられた人もいましたし、裕福になったユダヤ人もいたのです。異国で生活しながらも、主なる神様に祈り、神を礼拝し続けた人々は、捕虜になってしまったことさえも、これは神の計画であるとして受け入れていたのです。神の計画を信じた人は、捕虜でありながら、幸いな人生を歩むことができたのです。
この言葉はもちろん現代の私たちにも当てはまります。コロナ感染によって多くの人が自分で立てた計画を変更せざるを得なかったのではないでしょうか。私たちは、自分の命がいつ終わるのかさえも知らされていません。私たちの生活は、思い通りにならないことがあります。しかし、その思ったようにはいかない葛藤、淋しさ、悲しみの経験をバネにして、私たちの人生は素晴らしいものになり得る、神の計画があるのです。

Ⅲ. 「ぼくは奇跡だよ」  

映画『サイモン・バーチ』には「神様の計画」という言葉がでてきます。
12歳になった二人の男の子 サイモンとジョーの物語です。一人の低出生体重児が生まれました。医師は1週間もたないと言いましたが、その子は生き延びました。両親は男の子をサイモンと名付けましたが、両親は小さな息子に失望して、どう考えていいか分からず、結局「考えないことにした」つまり無視することにしたのです。
それでも歳月は過ぎサイモンは12歳になりました。身長96センチしかないサイモンを医者は奇跡と呼んだ。それからサイモンは「ボクは奇跡だよ」と口にした。でも、自分は人並みの寿命は生きられない、人より命が短いということを意識して生きていたのです。友人のジョーは父親の事を知らない私生児でした。私生児のジョーと、体が小さくて親の愛情を一切受けずに育ったサイモンの二人は、町の人から好奇の眼差しで見られていたこともあって親友になったのです。
サイモンは「自分の体が小さいのは何か意味がある・・・神の計画があるんだ」と言うのが口癖で、心から神様を信じていました。教会には毎週ジョーと一緒に通うのですが、ジョーは神の存在はあまり信じてはいないのです。何となく、サイモンの話に合わせて教会に通っていました。
ある年のクリスマスが終わった頃、教会では「黙想会」があって二人は出かけました。町に帰る時になって、子どもたちの乗り込んだバスにジョーとサイモンは子ども達の世話役として乗り込んでいました。そこで事故がおきてバスは湖に落ちてしまったのです。そこで子どもたちの命を救ったのはサイモンでした。サイモンは沈みそうなバスの中で、体が小さいが故にみんなを救うことができた。しかしサイモンは瀕死の状態でした。
ジョーがサイモンのベッドに駆け寄りました。「君は英雄だよ。神様は、子どもたちを助けるために君を、僕らのところに送ったのかもしれない。」と語りかけるのですが、サイモンは「それじゃあ、そろそろ行くよ」と言って天国に召されていきました。
残されたジョーは大人になって、息子の名前をサイモンと付けるのです。ジョーは昔を振り返って「彼のおかげで神の存在を知った・・・信じることを教わった」とつぶやきました。ジョーは神の存在を知り、信じることを知ったのです。
サイモンは、自分は人並みの寿命は生きられない、人より命が短いということを、いつも意識して生きていたのです。でも、意味がある。自分の命には意味があると信じていました。僕は無意味なんかじゃない。きっと、必ず神様が意味をもって生れさせたと信じ続けました。
私たちの人生も、思い通りではない、難しいことがあるわけです。計画していたことを軌道修正させられることがある。でも、その一つ一つには神様が与えてくださった意味が必ずあって、それは災いの計画ではなくて、希望と平和の計画であるのです。
そう信じたのがサイモンですし、彼の人生も、彼と出会ったジョーの人生も幸いなものだったのではないでしょうか。

Ⅳ. まとめ

エレミヤの言葉は「神様は私たちのために計画をもっておられる」ということです。人生は偶然の積み重ねのように思われるかも知れません。しかし、私たちの人生は混沌とした無秩序なものではありません。神様は捕虜になって落ち込んでいる人のために計画をもっておられました。
同じように今を生きる私たちのためにも計画をもっておられるということなのです。
そして、神様の計画は良い計画だということです。私たちにとって良い計画です。バビロンに連れ去られた人々は、最初はそれが良い計画とは思えなかったでしょう。しかし、人間の知恵を超えて、万事が益となる神様の計画があるのです。
不平不満を言っている無駄な時間はありません。私たちは、与えられた限りある命の時間を、意識しなければなりません。与えられた時間には意味がある。自分の命には意味があります。今日の御言葉から、自分に与えられた「神の計画」について考えていきましょう。
私たちは、人と交わした約束を忘れることがあります。しかし、神様はご自身の計画を「よく知っている」と言われるのです。忘れることはありません。神の計画を知るために、来週も共に礼拝にあずかっていきましょう。
お祈りをいたします。