天国にいる人ができること

<召天者記念礼拝> 和田一郎牧師 説教要約
2024年5月12日
詩編51編12-14節
ヨハネによる福音書14章16節

Ⅰ.天に召された方

 今日は召天者記念礼拝です。命を頂いた私たちにとって、「死」とは必然の出来事です。地上での死亡率は100%ですから必然です。しかし、私たちには心があるので、天に召された方を「偲ぶ」とか「悼む」という思いが与えられます。「あの時、もっと話しておけばよかった」などと思うのです。しかし、聖書を源とする私たちの信仰において「死」とは一つの節目で天国への引越しという言い方をします。死んでおしまいだとは考えておりません。天に召された方を、存在するものとして心に留めています。関係が続いていると受け止めているのです。
今日は、イエス様が最後の晩餐の席で、弟子たちに語られたお話です。イエス様は翌日十字架に架かられて、復活した後に天に戻られると話されていました。弟子たちはビックリしました。そのような中で、弟子たちに向かって繰り返し話されたのは聖霊についてです。聖霊というのは漠然としていて、聖書においてもいろいろな表現で語られています。聖霊とは、イエス様が地上から離れてしまった後、この世に残された弟子たちと、どのように結ばれるのかということに関係します。
さらに、イエス様が2千年前に地上から離れてしまいましたが、今も生きておられるイエス様は、聖霊が関係しているということです。また先に召された、私たちの大切な人たちも聖霊が関わっているのです。
イエス様は、最期の晩餐の席で聖霊について語られました。「もうひとりの弁護者」とあるのが聖霊のことです。聖霊は、裁判の弁護人のように、罪人の私たちを守って下さる方です。聖霊は、イエス様がいなくなっても、イエス様に変わっていつもいて下さり、慰めて下さるのです。
18節「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」。イエス様は、十字架で死なれましたが、3日目に復活されて天に昇られました。しかし、「戻って来る」と言われたのです。

Ⅱ . キリストと一緒にいる  

 イエス様は16節の後半で、「永遠にあなたと一緒にいる」とおっしゃいました。
弟子たちが、聖霊に満たされることによって、イエス様と一緒にいることになる、そしてその関係は永遠に続くというのです。それは、事実イエス様が天に昇られた後、現在に至るまで、イエス様は地上を歩む信仰者と共にいて下さいました。今も共に私たちとおられますし、これからもいて下さるのです。だから、私たちは、2千年ほど昔にこの地上を歩んだ、イエス様を信じているのです。聖霊の働きによってイエス・キリストと共にいるのです。
そのようなことを、まったく聖書と無縁な生活をしている方が聞いたとしたら「何を馬鹿なことを言っているのか」と思うでしょう。しかし、聖霊は、信仰と密接に結びついているのです。聖霊を知るか、知らないかが、目には見えないものを信じて大切にする信仰の分岐点です。私たちは信仰によって「永遠の命」を受けています。イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって、永遠の命を授かった私たちは、聖霊に満たされてキリストと結ばれます。さらに天に召された大切な人とも繋がれるのです。それは何故でしょうか。

Ⅲ. 私と一緒に楽園にいる

イエス様は、十字架に架かられた時、そばにいた犯罪人に言われました。
「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)。
楽園とは死後に住む天の楽園のことです。天に召された人の命の至福の状態を意味します。つまり、死なれた人がどこに行くのか?という問題について、聖書はキリストと一緒にいると記しています。地上にいる私たちも、聖霊の働きによってキリストと一緒にいることができるのですが、天に召された方たちも、同じようにキリストと一緒にいると聖書は語っているのです。ですから私たちは、聖霊の働きによって、天にいる召された方々と繋がれるのです。一緒にいることができるのです。

Ⅳ. 天国にいる人ができること

私が25才の時に母が癌で召されました。その時に、外国からビタミン剤を取り寄せたり、漢方薬を試してみたりしました。漢方を医療に取り入れている病院を見つけて、その病院に行って相談しました。もっと効果的な治療方法があるのではないかと考えたのです。
残された者は考えるのです。自分がもっと、何かをしていれば、もっと長生きできたかも知れない。もっと幸せになれたかも知れない。しかし、「病気をもっと早く見つけていれば」「交通事故に合わなければ」「もっと良い医者に出会っていれば」ずっと生きることができたのでしょうか?
「せめてあともう少し長く生きて欲しかった」とも思うのです。では、あと何年生きたら納得できただろう?とも思うのです。生きている以上は、いつか死ぬわけですから。
イエス様を考えてみてください。イエス様の死因は何でしょう?十字架という処刑によって死なれました。あの出来事さえ無かったら、死に追いやろうとした祭司や律法学者達がいなければ、ずっと生きていたでしょうか?しかし、そもそもイエス様は人となって生きたから死なれたのです。天国で霊の存在のままでいたならば死ぬということはなかった。しかし、肉体をとって生きたことが死んだ原因です。受肉されたというのは、そういう痛みを、私たち人間と同じようにお受けになったということです。
死ぬために受肉されたのです、なぜならイエス様の「死」には意味があったからです。地上の人間を愛していた。愛する者の為に死んだのです。
私も母や父の死と向き合って、その死には何か意味があるのではないかと考えるようになりました。率直に言うと、「死には意味がある」と思いたかったのです。天国にいる両親が何かの意味を残してくれたと。
両親の死をとおして、私は先のことを考えるようになったと思います。たとえば、幼い子は「今日は何して遊ぶ」と言い、小学生になると「明日は何があるの?」と一日先のこと、中学生になると1カ月先のテストのこと、成人して結婚すると、数十年先の家族計画を考えます。しかし、私は母が天に召された時は25才でしたが、それから少しずつ残りの人生のことを考えるようになりました。老後のことを考えるということではなくて、いつか死ぬという事を考えるようになりました。母の死を通して、母の人生を垣間見たからです。
母の葬儀や記念会の時に母が子どもの頃や、若かった日々の話を聞きました。母の人生を思い浮かべて「母は幸せだっただろうか」と、そして、自分はどうなのかと考えるようになりました。愛すべき人の死を目の当たりにすると、悲しみと同時に、いつか自分にもやって来る死について、考えさせられるのではないでしょうか。いつか必ず死ぬのだから、今をどう生きようかと。そう考えさせてくれるのは、天国にいる人がしてくれたことです。
今、私たちは難しい時代を生きています。だからこそ、死に向き合って、今をどう生きようかと考えることが求められているのではないでしょうか。命の問題です。自分の命の問題であり、大切な人の命の問題、そして世界中の人々の命の問題です。その命の問題を考えることは、少なからず世界を良い方向に変換する作用があるのではないでしょうか。天国にいる人が、その死を通して与えてくれていることです。
聖霊の働きによって、天におられるイエス・キリストを思うことによって、そのそばに、大切な人がいるからこそ、私たちは、今を生きることを考えさせられます。繋がっているのです。
私たちには、今も生きておられるイエス・キリストが共におられます。聖霊の働きによって、天におられるイエス様と繋がり、イエス様のそばにいる、大切な人とも繋がります。今日、礼拝に参加された方は、その聖霊の働きによって教会に来られました。偶然ではなく、聖霊の働きによって、共に礼拝に与ることができました。天にいる民も、地にある者も、父・子・聖霊なる、神を崇めましょう。
お祈りをいたします。