たったの一人は尊い一人

和田一郎副牧師
ルカによる福音書15章1-7節
2022年10月23日

Ⅰ. 聖書に聞く

キリスト教は言葉の宗教と言われます。ヨハネによる福音書は、「初めに言(ことば)があった」という一文から始まっています。天地万物が造られる前、まず神様がそこにおられました。その神様を言葉と表現しているのです。「初めに言(ことば)があった」と。
その神様は「光あれ」と言って、言葉であらゆるものを創造されました。ですから私の名は一郎と言いますが、「一郎あれ」といって、この命が与えられたわけです。
神様の言葉は今も聞くことができます。この聖書に記されている言葉が神様の言葉だからです。ところが、ある神学者が、聖書は神の言葉であるけれど、「聖書を読む」ことと「神に聞く」ことは違うと言っておりました。どういう意味かというと、「聞く」ためには、相手がいなければ聞けませんよね。「聞く」ことで主導権をもっているのは語っている相手の人です。しかし「読む」となったらどうでしょう。「読む」のは一人の行為になってしまいます。「聞く」ことで主導権をもっているのは話し手ですが、「読む」と主導権は自分になるわけです。「『聞くこと』は人格と人格の間で交わされる行為である」とその神学者は言いました。ですから教会では「聖書に聞く」と言ったりします。それは神の言葉を聞くことなのですね。
「文字は殺し、霊は生かす」(2コリント 3:6)という言葉もありますから、聖書の言葉を文字として読んでいても知識としては増しますが、神様との関係を作るには、あくまでも神の声として受け止めて、「神様の声を聞く耳」を持つようにしたいと思うのです。

Ⅱ. 聞く耳のない人たち

ところが、今日の聖書箇所には、聞く耳を持つ人と、聞く耳を持てない人たちがでてきます。
先程、朗読したのはルカ福音書15章でしたが、その直前の箇所では「聞く耳のある者は聞きなさい」(ルカ 14:35)とイエス様は言っているのです。イエス様は他のところでも何度も言うのです「聞く耳のある者は聞きなさい」と。そこで集まってきた人は、徴税人や罪人と呼ばれていた、世の中から疎外されて肩身の狭い思いをしていた人たちでした。彼らはイエス様の話しを「聞きに来た」のです。一方でファリサイ派や律法学者と呼ばれる特権階級の立派な人たちもやって来ました。しかし彼らは「文句を言った」とあるのです。
いつの時代にも、聞く耳を持つ人と、持たない人がいるのです。そこでイエス様は、ある譬え話しを始めました。

Ⅲ. 羊飼い(神様)の思い

百匹の羊を持っている人がいて、その中のたったの一匹ですが、いなくなったのです。別の箇所では「迷い出た」とありましたから、一匹の羊が迷子になっていなくなったのです。それを知った羊飼いは、そこにいる九十九匹を荒れ野に残して(おそらく他の羊飼いが見ていてくれたのでしょう)、見失った一匹を見つけ出すために捜し歩くだろうと言うのです。
私たちだったらどうでしょう?羊1匹くらいいなくなってもあと99匹もいるし、別にいいか、と考えるかもしれません。合理的に考えれば、当時のユダヤの荒れ野というのは危険な場所がありましたから、たった一匹のために、時間を割いて危険な場所を探しに行くなんて合理的ではないと計算するかも知れません。最近の言葉で言えばコスパが悪いのです。
しかし、この羊飼いは神様に譬えられています。合理的ではないことでも、神様は違います。神様はいなくなった1匹を見捨てず必死で探されるお方なのです。神様にとって私たち人間は、一人の例外もなく大切で愛おしい存在だからです。聖書には「神はその独り子をお与えになるほどに、世を愛された」という言葉があります。自分の独り子を犠牲にしてまでも、この世の私たち人間を愛してくださっているのです。なぜでしょうか?
最初に、神様は言葉であらゆるものを創造されたと話しました。私たち人間、それぞれの命を創造されました。神様がご自分で命を与えた、ご自分の大切なものだからです。ご自分のものとして大切に思って下さり、迷い出たなら、捜しに行って、見つけ出し、ご自分のもとに取り戻そうとして下さるのだ。ということなのです。
自分のものは大切にする、失くしたら必死に探す。誰の中にも当然あるこの思いに目を向けさせようとして、イエス様はこの譬え話しを話されました。この話を聞いていた徴税人や罪人と呼ばれ、肩身の狭い思いをしていた人たちも、神様は放ったらかしにしない。自分のものとして大切にしてくださるのだ。神様とは、そのようなお方なのだと教えてくださったのです。

Ⅳ. 道に迷った羊の思い

一方で、迷い出した羊に目を向けたいと思います。この羊は迷子になって、どんな思いでいたでしょうか。群れからはぐれて、自分がどこにいるのかも分からない。不安と心細さと恐れでいっぱい。喉はカラカラ、おなかはペコペコ。足は疲れて重いし、周りはどんどん暗くなって行く。もう泣きそうでボロボロだったでしょう。迷子になった羊は、自分で羊飼いのもとに帰ったのではありません。そもそも羊にはそんなことはできないのです。羊は、群れの中で養われなけれる動物です。一旦、迷子になってしまったら、自分で道を見つけて戻ることはできないのです。
私も最近、この羊のように道に迷う経験をしました。家族3人で山に登りました。5歳になる息子でも登れて麓から片道1時間ぐらいの登山です。その日、私は心も体も疲れが残っていたので、登り始めるのが遅くなってしまったのです。でも、とにかく登り始めました。ところが、歩いてもなかなか登り道にならないのです。道を間違ってしまったのです。道を戻りながら、日が暮れ始めていたので、「まずいな」と思い始めました。携帯電話の電波も届かない所だったので目的地の山小屋にも電話ができない、位置情報も見れずに不安になっていたのです。そこで、「私はこのまま登るのは危ないから山に登るのは止めて帰ろう」と言いました。それを聞いた息子は大泣きです。しかし、息子の声を振り切って麓の駐車場まで戻ったのです。今思うと、私は心身共に疲れていて、心が折れていたのです。麓には売店があって妻がいろいろ話しをしていました。妻は売店からは山小屋に電話がつながるから話してみてはどうか?と言うのです。電話で山小屋の人が言うには、子どもの足でも、まだ日没には間に合うことと、登りやすいルートも教えてくれたのです。結局、登ることにして、無事に日没前に山小屋に到着しました。素晴らしい夕日を家族で見る事ができた。楽しい思い出となったのです。
その夜、山小屋の寝床についた時、息子がおもむろに「今日学んだこと」と言うのです。いったい何だと思いました。すると「今日学んだこと。人に聞くこと!」と言うのです。これには夫婦そろって大笑いしながら驚きました。そうです、私は「まずいな」と思ったあたりから、周りの声が聞こえなくなっていたのです。妻が言った言葉も耳に入っていませんでした。自分は登山の経験があるのに道に迷ってしまったという負い目、疲れ、日の傾き、焦り、心を閉ざして聞く耳をもてなかったのです。周りには行き交う登山者も家族もいたのに、心を閉ざして勝手に孤独感を感じていました。耳があるのに聞く耳をもっていなかったのです。
イエス様は「聞く耳のある者は聞きなさい」と言いました。それは何を聞きなさいと言っているかというと、神様の声を聞くことです。つづいて愛する隣人の声を聞くこと、さらに自分自身の心の声も聞く必要があるのです。聖書全体が教えていることは、神を愛しなさい、そして隣人を自分のように愛しなさいと教えています。言い換えると神様の声を聞くこと、隣人の声を聞くこと、さらに自分の心の声を聞くということです。
聖書では、人間は誰もが神様の前では一人残らず罪人であると教えます。犯罪を犯した罪人ではありません。神様から離れて自分勝手に歩んでいる罪人です。神様の声も、隣人の声も、自分本来の声すら聞こえなくなってしまった人を、罪人と呼びます。それは道に迷った一匹の羊です。自分一人では何もできない羊です。しかし、そんな不安で心を閉ざしている罪人の、心の呻きや、叫びを、聞いてくださっているのは神様です。なぜなら、たったの一匹であっても、いつも探してくださっているからです。決してあきらめない。「恐れるな。私があなたを贖った。私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの」(イザヤ43:1)。

Ⅴ. 問いかけ
そして最後に、見失った羊を見つけ出した羊飼いは、「喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう」(ルカ15:5,6)とあります。
迷い出てしまった罪人を、自分の大切なものとして必死に探し、ようやく見つけた人は、大いに喜んでくださるのです。迷子になった羊ではなくて、探していた羊飼いの喜び、つまり神様の喜びです。神様の声に、聞く耳をもたなかった人が、神様のもとに立ち返ることを、神様は誰よりも喜んで下さるのです。
しかし、この譬え話は、私たちに対する問いかけでもあります。つまり私たちは、あの徴税人や罪人たちのように、イエス様のもとにその話を聞こうとして近寄って来るのか、それともあのファリサイ派や律法学者たちのように、イエス様に聞く耳を持たずに、自分が言いたい文句を言うのか?という問いです。
神様の声を聞くって、簡単そうで難しいのかも知れません。私は息子の言葉をきっかけとして悔い改めました。きっと息子の知恵というより神様が働かれたのだと思います。
人は誰でも罪人、誰もが聞く耳をもたずに生れました。神様はそのために、ご自分の独り子をこの世に遣わして下さいました。神の独り子イエス・キリストが、迷子になってしまっている私たちを探し出し、見つけ出して神様のもとに連れ帰って下さる、まことの羊飼いです。イエス様が私たちの羊飼い。何も欠けるものはありません。
お祈りいたします。

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