授かったいのちを生きる
松本雅弘牧師 説教要約
詩編16編8-11節
コロサイの信徒への手紙3章1-3節
2023年5月21日
Ⅰ. 「永遠のいのち」は何かと問われたら
世間では、「終活」が盛んです。どのように最後を迎えるか。どのように葬儀を行うか。どこの墓に葬られるか。家族にどのようなものを残していくのか等々。そうした一つひとつの準備を終え、〈さて、これでひとまず安心〉と思うのですが、ふと、その時、心をよぎる心配がある。それは、「ところで、死んだ後、どこに行くか」。
誰でも旅に出る時、行き先を知らずに出発する人などいません。それと同様に、この世の生涯を終えて旅だって行く時に、「行く先が分からない」ことほど心細く不安なことはないのではないでしょうか。実はこのことこそ「終活」の中心だと、私は思います。
葬礼拝の冒頭で、私はいつも主イエス・キリストの言葉を朗読させていただきました。そこでは「死んだ後、どこに行くか」という誰もが抱く不安に答えるように、「私を信じなさい。私はあなたのために場所の用意をする。そして用意したらあなたを私の所に迎えます。このことを信じなさい。そして平安でありなさい」と宣言しておられます。
キリストにあって死を迎える、教会の言葉を使うならば「召される」ということ、それは、私たちの住まいが天に完成したしるしです。あちらに準備が整った証拠なのです。ですから「心を騒がせるな」とおっしゃる。それは「空元気を出しなさい」という意味ではありません。「安心できる根拠があるから、安心しなさい」と言う意味です。
ところで、聖書には「聖書の中の聖書」と呼ばれる、次の聖句があります。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
ここに「永遠の命」という言葉が出てきますが、この「永遠の命」とは何のことですかと問われたなら、私たちはどう答えるでしょう。確かに、毎週、「使徒信条」をもって「わたしは…永遠のいのちを信じます」と告白していますが、正直なところ分かったようでわからないというのが私たちの気持ちではないでしょうか。今日はこの「永遠のいのち」の恵みについてご一緒に考えてみたいと思います。
ところで、私たちが「永遠のいのちを信じます」と告白する、聖書が教えるその信仰とは、「誰もが死を経験するわけですが、しかし私たち人間存在は死んでおしまいではないのだ。」ということの告白でもあります。
ただ注意しなければならないことがあります。それは元々私たちに不死の性質や力があるから死でおしまいでない、というのではなく、神さまが「永遠のいのち」を与えてくださるから死でおしまいではないのです。では、「永遠のいのち」が与えられているのに、人はなぜ死ぬのか。そもそも肉体の死というものにどんな意味があるのでしょう。今日はこうした問いを持ちながら、聖書の言葉に聴いて行きたいと思います。
Ⅱ. 「永遠のいのち」が与えられているのに、なぜ「死」があるのか
では聖書はそのことについて何を教えているのでしょうか。結論から言いますと、聖書が教えていることは、私たち人間が死ぬことによって、自分が神に造られた被造物に過ぎないことを証しするということ。もっと言えば、神によって始められたいのちだからこそ、神による終わりもある。人間をあくまでも一時的なものとして、ほんの束の間のものとして造られているということです。
勿論、信仰があっても死を前に誰もが生身の体を持つ者として不安を抱くのは当然です。ただそれでも私たちは聖書を通して、神がこの私を「限りある者」として造られたことを認め、そのはかない私に「永遠のいのち」を与えてくださったことをも知る時、そこで初めてそのお方の御手に私自身を委ねることが出来る。それが信じる者に与えられている恵みです。
Ⅲ. 聖書から「永遠のいのち」について考える
こうした死の現実を踏まえた上で、次に聖書の約束する「永遠のいのち」について考えたいのです。それを示すのが今日の詩編16編にある御言葉です。
最初の8節に、「私は絶えず目の前に主を置く」とあります。私たちが心の目を開き、神さまがこの私の人生の同伴者である、そうした意識をもって生きる詩人の姿が出ています。
そうしますと次に不思議な経験に出くわすのです。それを詩編の作者は、「主は右におられ/私は揺らぐことがない」と言い表わします。神さまを意識して歩む時に、その神さまが私を守るために、なんと私の「右に」いてくださるという経験です。
ところで、この「右に」という言葉ですが、聖書はこれを保護者を表わす言葉として使われています。結婚式では新郎新婦が並んで立つのですが、新郎は新婦を保護する者として右側に立ちます。
さらにまた「右に」という言葉は、信頼を表わす言葉として聖書では使われます。私の右に誰かが立つということは、誰かに立たれた私の方は自分の右手を自由に動かせなくなります。一般に右手は利き手ですから、敵が来た時に、向かってくる敵に対して剣を取る手が、この右手ですから、それを動かせないということは、自分の右に立っているお方が、決して私に害を加えないと信じていることの表れでもあります。
いや、それどころか、その方は御自分の左手に盾をもって私を保護し、右手に剣をもって敵から私を守ってくれる。そうした信頼を意味する言葉が「右に」という表現です。つまり神をこのような「保護者」として信じること、それは信仰者にとって一番の力となるのです。
いかがでしょう。先週、一週間を振り返っただけでも、私たちの生活には様々な出来事がありました。そうした出来事の中には、幾つか難しいこともあったと思います。正に敵が押し寄せて来るように、です。そして「一週間」をさらに引き延ばして、今までの生涯をふり返る時、私たちの生活に襲いかかる困難、あるいは敵のなかでも、たぶん一番の敵は「死」というものなのではないかと思うのです。
そうした時に、私たちの最大の敵である死に対しても、神は保護者として私の右に立ってくださり勝利してくださるのだ、とこの詩人は告白しているということなのです。ただその勝利とは、次から次へと奇跡を起こし、襲いかかって来る「死」を遠ざけてくださるというのではありません。そうではなく、死に瀕するという厳しい状況にあったとしても、私たちが心を乱されず、静かに忍耐強く対処できる心をお与えくださる、ということでしょう。その時、たとえ病状が思わしくなくても、最後まで病と闘える。
そして正に死が襲いかかろうとする、正にその時が来たとしても、命を始められたお方は命に終止符を打たれる方でもありますから、もし死が今、この時であること、それが御心であるならば私はそれに従います、という姿勢をも神は与えてくださる。8節の終わりにある、「私は揺らぐことがない」とはそのような意味の言葉です。
それだけではありません。詩編記者は、「永遠のいのち」を与えられている幸いを歌い上げているのです。「それゆえ、私の心は喜び/心の底から喜び躍り/この身もまた安らかに住まう。あなたは私の魂を陰府に捨て置かず/あなたに忠実な者に滅びの穴を見せず/命の道を私に示されます。」
日々の生活にあって神とのこのような親しい交わりを経験している者は、肉体の死によって、そのお方との交わりが断たれてしまうことはない。「永遠のいのち」について詳しいことが分からなかったとしても、神は私を裏切ったりするお方ではない。そうした確信を持つことが出来る。
「あなたに忠実な者」すなわち神を信じる者に、神は肉体的な死を経験させないということを言っているのではありません。ここで詩人が言わんとしていることは、たとえ肉体的死を経験したとしても、彼を神から引き離された暗い空しい状態の中に放っておくことはなさらない、という告白です。言葉を変えれば、「命の道を私に示されます」という確信へと引き上げられていく。まさにこういう状態こそが、実は聖書の教える「永遠のいのち」に与っている状態。とこしえの神と共にある「永遠のいのち」の道を教えられ、歩むことにほかならないのです。
ですから、このような人こそ、肉体的に死に行く時でも、「命の道」を歩んでいるのであり、そこには満足、祝福、喜びがある。静かな落ち着きがあるのです。
Ⅳ. 授かった「いのちへの道」を歩む者となりなさい
聖書は、「永遠のいのち」とは何かを知るために、死後の状態を色々と詮索することを勧めていません。むしろ、「永遠のいのち」とは何かを知りたい人は、生きている時から、すなわち、今、この時から、神さまを自分の前に置いて生きるように、と勧める。神さまが、自分の右に居ます保護者であることを覚えるように、と説くのです。
そのようにして、神を自分の前に置いて生き、神の保護を経験させられるたびに、この地上に居ながら、「永遠のいのち」の約束を確かなものとされていく。
そういう人は、たとえ死にゆくときでも安らかに満たされるのだ、そういう「いのちへの道」を行く者であれ、それこそがまことの「終活」となると聖書は告げているのです。先に天に召された方々、そして私たちもこの恵みに与っているからです。
お祈りします。
