新しい革袋、新しい命
<教育月間>
和田一郎牧師 説教要約
2025年11月23日
ハバクク書 3章17,18節
マルコによる福音書2章18-22節
Ⅰ. 新しいものへの驚きと、古い秩序
イエス様は、ご自身の言葉と権威をもって福音を宣言されました。その語り方、その存在そのものが、これまで誰も見たことのない新しさでした。そして驚きの連続でした。神様から遠いと思われていた人、礼拝の輪からはじかれていた人が、主の呼びかけによって真ん中に招かれていく。そこに、神の国の新しさが現れていたのです。
中世ヨーロッパでは、ガリレオが地動説を主張し宗教裁判にかけられました。「聖書の解釈権を、教会ではなく科学者が握り始めた」という危機感があったようです。教会が恐れたのは、科学そのものよりも、聖書解釈の秩序が崩れることでした。
Ⅱ. 断食ではなく、喜びの食卓
本日の箇所においても、信仰理解について自分たちが大切にしてきた秩序を乱していると、「断食」をめぐって人々が疑問をもち、質問します。「なぜあなたの弟子たちは断食しないのですか」と。「断食」は聖書において悔い改めの印でした。ダビデ王が深い罪を犯したとき、彼は断食して祈りました。イスラエルの民は「贖罪(しょくざい)の日」に断食をし、働くことをやめ、自分の罪を深く顧みる日としていました。イエス様の時代になると、ファリサイ派の人々は断食している自分を人に見せ、「自分は信仰深い」と誇るようになっていました。本来は罪を悔い改める行為であったのが、自分を高く見せる手段に変わってしまう。これは、私たちにも陥りやすい姿です。信仰の行為が「自分中心」にねじれてしまうのです。
一方、洗礼者ヨハネとその弟子たちは違う形で断食をしていました。ヨハネは荒れ野で、いなごと野蜜を食べていたとあります。形式ではなく実質の断食を選び取ったのです。ヨハネの弟子たちも、それに倣って断食をしていました。
しかし一方で、イエス様は人々と一緒に食卓につくことを喜ばれました。罪人と言われた人とも、一緒に食事をなさいました。そのために「大食漢で大酒飲み」と批判されるほどでした。つまり断食よりも「ともに食べること、喜びを分かち合うこと」を重んじていたのです。
なぜでしょう?主イエスは言われます。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか」(19節)。弟子たちは結婚披露宴の客なのだと。婚礼の席で「今、断食中です」と箸をつけない人がいたらおかしいでしょう?花婿とはイエス様ご自身のことです。救い主が花婿として来られ、神の国の婚礼が始まっていて、弟子たちはその婚宴に招かれた客なのだから、今は断食ではなく、喜びと祝いの時だと主は言われたのです。
Ⅲ. 花婿が取り去られる日
イエス様は続けて言われました。「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には彼らは断食するようになる」。これは、イエス様が十字架につけられて殺されることを暗示する言葉です。弟子たちは、花婿を奪われたかのような悲しみの中で断食するようになるでしょう。初代教会の人々は、水曜日と金曜日に断食をしました。特に金曜日、主の十字架を覚える日に断食したのです。しかし、イエス様がもたらした新しさは、断食そのものにではなく、その中心が「喜び」に移されたところにあります。花婿が来られ、婚礼が始まっている。だから信じる者の生活の根本には「主が共におられる」という喜びがあります。勿論さまざまな苦しみや悲しみの現実は消えません。病も、別れも人生からなくなりません。しかし、そのど真ん中に「それでも主は私と共におられる」という喜びがあります。この喜びが、信仰者の支えなのです。
私たちが礼拝であずかる聖餐は、その具体的なしるしです。パンと杯をいただくとき、私たちは主の十字架と復活の恵みを味わい、赦された神の子として新しくされます。
とはいえ、この世界には、悲しみや不安、病や戦争、死の影が満ちています。その中で私たちは、「本当に神の国などあるのだろうか」と揺らぐことがあります。まさに花婿を奪われたように感じる時があるのです。そんな私たちに向かって、主は「私は必ずもう一度来る」と約束してくださいました。最後の日、花婿イエスが再び来られます。その日を待ち望みながら、見えない主を信じて歩むこと。それが「花婿を待つ信仰」です。
Ⅳ. 新しい命として生きる
イエス様は、ご自身がもたらした新しさを、布とぶどう酒でたとえます。新しい布とは、まだ伸びても、縮んでもいない布のことです。そのような織りたての布切れを、古い服の継ぎに当てるならば、新しい布切れが古い服を引き裂いてしまいます。彼らは、イエス・キリストの福音という新しい生き方が訪れているのに、古い生き方にしがみついていました。それは、新しい服から布切れを取って、古い服に継ぎを当てるようなものです。
次いで「新しいぶどう酒は新しい革袋」というのも同じです。イエス様による新しい救い、新しい喜びを受け取るために、私たち自身が新しくされる必要があるということです。それは、新しい命に与(あずか)っている神の子として喜んで生きること。十字架の赦しを受け取り、「私は神の子として喜んで生きてよい」と信じること。そして、やがて来られる花婿を待ち望みながら、日々を感謝と希望をもって生きることです。そのようにして造り変えられた私たちこそが、「新しい革袋」であり、その中にイエス様は新しいぶどう酒、新しい命の喜びを注いでくださいます。
私たちの教会生活にも、「古い革袋」のようになってしまう危険があります。形は守られている、礼拝の順序も、行事のカレンダーも、役員会や委員会の仕組みも整っている。けれども、その中身である喜びや感謝が抜け落ちてしまうことがあるのです。「こうしなければならない」「前からこうしてきたから」という思いだけが前面に出てしまうとき、ぶどう酒はすでに発酵しているのに、革袋は硬く縮んだまま、という状態になります。そこに主が新しい命を注ごうとされると、古い革袋は耐えきれずに裂けてしまう、と主は警告しておられるのではないでしょうか。
主イエスが求めておられる「新しい革袋」とは、柔らかく、広がっていく心です。自分の考えに固くとどまるのではなく、「主よ、あなたが今、ここにどのような新しい命を注ごうとしておられるのか教えてください」と祈る心です。自分と違う人、弱さを抱えた人、小さな者と共に生きることを学ぶ心です。そのようにして互いに支え合う群れに、イエス様は新しいぶどう酒を豊かに注いでくださいます。
今日は、ファリサイ派もヨハネの弟子たちも、自分たちを脅かす存在としてイエス様を見なして古い革袋のままであったことを知りました。私たちも独りよがりでいると古い革袋のままです。しかし、毎週の主の日の礼拝は、私たちが新しい革袋へと造り変えられる場です。み言葉を聞き、聖餐にあずかるとき、私たちは再び招かれます。「さあ、花婿のいる結婚披露宴に来なさい」と。その喜びの祝宴からまた一週間、それぞれの家庭へ、職場へ、学校へと遣わされていきます。喜びだけでなく、涙もあります。けれどもそのすべての中で、「花婿は必ず来てくださる」「私はその花嫁として招かれている」という希望を握りしめて歩みたいのです。
この一週間、私たちはそれぞれの場所で、さまざまな課題や不安のただ中を歩むことでしょう。健康のこと、家族のこと、仕事や学びのこと、将来への心配もあるかもしれません。その只中で、「私は新しい革袋だろうか」と不安に思うときがあるかもしれません。しかし大切なのは、自分で自分を新しくすることではありません。私たちを新しくしてくださるのはイエス様ご自身です。新しいぶどう酒を注いでくださり、新しい革袋の私たちに、新しい命を与えてくださいます。キリストの招きに応えて礼拝に集い、み言葉を聞き、祈るとき、主は静かに、しかし確かに、私たちの心を柔らかくし、新しい命で満たしてくださいます。その約束を信じて、今日も、そしてこれからも、「新しい革袋、新しい命」として主と共に歩んでまいりましょう。
お祈りいたします。


